ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 稲葉剛著 「生活保護から考える」 岩波新書(2013年11月)

2015年01月29日 | 書評
最後の砦である生活保護の基準引き下げは、社会保障制度崩壊の始まり 第2回

序(2)

中西正司・上野千鶴子氏は中西正司・上野千鶴子著 「当事者主権」(岩波新書 2003年10月)において障害者自立支援事業における当事者主権を理論化して次のように言う。障害者、女性、高齢者、患者、不登校児童、引きこもり、精神障害者など、社会的問題点を抱えさせられた少数の集団(マイノリティー)に生活自立運動や解放運動が1970年代から始まり、1980年代に運動の大きな盛り上がりがあって、1990年代に社会的制度や国の支援体制が整ってきた。これまで障害者や高齢者の生活自立支援事業とは国や市町村の温情的庇護主義的サービス(パターナリズム)と見られてきた。あくまでサービスの受給者は受け身で、官が良かれと思うことをやるという不備だらけのサービスのことであった。その考えを根底から覆したのが「当事者主権」と言う考え(パラダイム転換)である。当事者とは私の現在をこうあってほしい状態に対する不足ととらえて、そうでは新しい現実を作り出す構想力を持ったときに始めて自分のニーズとは何かがわかり、人は当事者になる。当事者主権はなによりも人格の尊厳に基づいている。誰からも侵されない自己統治権即ち自己決定権をさす。「私のこの権利は誰にも譲ることはできないし、誰からも侵されないとする立場が当事者主権である」と定義されるのである。社会的弱者といわれる人は「私のことは私が決める」という基本的人権を奪われてきた。2000年より施行された介護保険は「恩恵から権利へ」、「措置から契約へ」と大きく福祉パラダイムが変化した。当事者主権はサービスという資源をめぐって受け手と送り手の新しい相互関係を築くものである。
橋本治氏は橋本治著 「乱世を生きる-市場原理は嘘かもしれない」(集英社新書 2005年11月)において次の様に言う。今はやりの言葉に「勝ち組」、「負け組」がある。芸能界では品の無いタレントを「セレブ」と呼んで面白がっている。ずいぶん馬鹿にした言葉だと思っていたが、こんな風に言うことが、昭和末期のバブル崩壊後の、平成1990年代の社会の混迷を覆い隠すことにほかならない。飽和した産業の投資先を失い、危険な金融資本主義に狂乱する日本社会の支配者が、貧困に追い込まれた国民を無能者呼ばわりして文句を言わせない風潮を作ることが目的のキャッチコピーである。 橋本氏は「今の日本の社会のありかたはおかしい」という。これが「負け組」のひがみでなく、経済的貧富の差を固定化する方向がおかしいというのである。「不必要な富を望まない選択肢だってある」というような痩せ我慢を主張するようでもあり、氏の論旨の持って行き方は大変面白いのだが、「負け組の言うことは聞かないという日本社会の方向がめちゃくちゃだ」ということが氏の入り口になっている。とにかく現在の世界を動かしているのは投資家だということは事実のようだ。別に現在だけでなく昔から投資家はいた。1980年代に日本の生産力は世界一になって、輸出先と投資先は飽和しもう何処へ投資していいか分らなくなったのだ。アメリカの要請もあって、日本は内需を喚起すべくリゾート法などを作って土地価格の上昇は無限だという神話に埋没した。もう完全にあの時は狐がついていたのだ。狂ったように土地に投資した銀行・不動産などは昭和の終わりと同時にはじけた。これをバブル崩壊という。時を同じくして東欧・ソ連邦の社会主義国が崩壊し冷戦は終わった。アメリカの軍需産業は縮小統合の時代になって経済の氷河期に落ち込んだ。アメリカは日本の生産力と冷戦というダブルパンチによって死に体から必死の脱出策を講じた。それが金融資本主義(投機資本主義)によって、世界(ロシア、東南アジアと日本・韓国など)から資本蓄積を略奪する方向へ向かい、各国へ破壊ビジネス(ヘッジファンドM&Aや規制緩和)を仕掛けていったというのだ。

中野麻美氏は中野麻美著 「労働ダンピングー雇用の多様化の果てに」(岩波新書 2006年10月)において次のように言う。時間給賃金が1996年から2001年には250円強もダウンしさらに下落し続けている。更に正社員も成果主義処遇によって二極化した。このように労働現場を厳しく変えたのは、1986年に労働法制が再編され機会均等法と労働者派遣法が制定され労働基準法が大幅な規制緩和にあったためである。低賃金化・細切れ雇用がすすむ非正規雇用はいまや究極の商品化とも言うべき「日雇い派遣」を生み出すに至った。この低賃金労働は正規雇用を追い詰める。「正規常用代替」は正規雇用の烈しい値崩れをもたらした。雇用者が正規雇用であることに特別の意義を見なくなった結果である。規制緩和政策は経済を回復基調に導いたかの様にみえるが、一方で激しい二極化と貧困化を進めた。労働者を犠牲にして企業の人件費削減策が成功したのである。労働者の人権と生活を奪って、いやなら外人を雇うよと脅しをかけているようだ。正規労働者と非正規労働者(女性が多い)と外人労働者の三者を競争させて人件費コスト低減するのである。「分割して支配せよ」とは植民地主義の原則であったが、いまや労働界は分断されて抑圧されている規制緩和が労働者の選択権(自己決定権)というイデオロギーを伴って導入されたことは、取り返しのつかない被害を社会に与えた。つまり「自己決定」というポジティブな像をもって人を欺き、格差を認めさせ、生み出される矛盾を働き手の「自己責任」にすり替えるという米国流自由の論理は労働法をないがしろにし差別を固定化するものであり、不公正社会をもたらし人から活力と再生可能な労働を奪うものである。労働は自立した人生を創り上げる人権そのものなのだ。その人権を奪うことは資本が人々を奴隷化することである。許されるものではない。政府こそが労働活動の適正な配分を保証し差別を抑制する機能を果たすべきで、小さな政府と言う規制緩和は健全な社会を守る任務放棄になる。

(つづく)