ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 南川高志著 「新・ローマ帝国衰亡史」 岩波新書 (2013年5月 )

2014年01月21日 | 書評
栄えていた国が滅びるということ 第5回

3) 帝国分裂と後継者争いーコンスタンティウス2世

 337年コンスタンティヌス大帝没後、帝の家族が虐殺される皇統の争いがあったが、帝国は3子正帝で分割され、コンスタンティウス2世が東半分を単独で継いだ。おそらく惨劇の首謀者は帝位継承者を整理するコンスタンティウス2世であったろうと思われる。長兄がガリア・ブリテン・スペインを、末弟コンスタンスは中央イタリアとアフリカを分割した。340年にコンスタンティウス2世は長兄を亡ぼし、結局帝国は西をコンスタンスが、東をコンスタンティウス2世が統治した。350年西の帝国で反乱がおきコンスタンスは殺害され、更に皇帝が二人も立った。皇統はコンスタンティウス2世ただ一人となって、激戦の末351年単独皇帝となり、イタリアのミラノで統治した。コンスタンティウス2世はパウルスという官僚を使って政敵の粛清を行い、レブスという官僚を用いて警察国家による帝国各地の統治を行った。コンスタンティウス2世はスターリンのような冷徹で非情な政治家であったようだ。宗教面ではキリスト教を保護しアウレリウス派を支持した皇帝は三位一体説に肩入れをし、ギリシャローマ伝来の神殿の封鎖や儀式を廃止した。ローマ社会は精神面での寛大さを次第になくしていた。コンスタンティウス2世の腹心の道長官を殺害した東方の副帝ガルスを意に沿わないとみると354年これを処刑した。ガルスを処刑したため残された親族はユリアヌス一人となった。また355年ケルンでシルウァヌス将軍が反乱を起こし皇位を僭称したが、殺害されたので大事に至らなかった。コンスタンティウス2世は政治面では元老院を復興させ発展させて帝国統治の仕組みが一層精緻なものとなった。皇帝政治は官僚や宦官が牛耳る「皇帝顧問会議」という側近独裁政治で行われた。それが後日、幼帝が即位すると政治の実権が有力元老院議員と官僚・宦官の結託した勢力が動かすようになる。コンスタンティウス2世の評判は後世、残虐で疑り深い皇帝となり、アリウス派に肩入れしたためキリスト教正統派からは厳しく非難された。

(つづく)