ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 村井康彦 著 「出雲と大和」(岩波新書 2013年1月)

2013年11月11日 | 書評
記紀神話時代の古代国家の原像 出雲王朝は邪馬台国をなぜ大和王朝に譲ったのか 第5回

3) 大和王権の確立
 出雲連合の邪馬台国勢力が、戦わずして帰順した理由は何だったのだろうか。明治維新において徳川慶喜は最大勢力を維持したまま列藩同盟の盟主たらんと欲し、あっさり大政奉還を行い江戸無血開城をしたものの、薩長連合は態勢が決した状態でなお戊辰戦争を行なって血を流す事を選択したのは、支配権力の帰趨を決するためであった。このような近現代史を思うとき、出雲勢力が選んだ道は天孫族神武政権の取り込みが目的であったとみられる。記紀にいう「国譲り」とは、葦原中原の国造りをしていた出雲勢力の大国主神が天照大神の命に従って、その統治権を天孫族に譲るものであった。饒速日命の帰順は大国主神の国譲りの原像であった。この場合大国主神とは出雲に端を発する連合王国の歴代の長もしくは象徴的権力(天皇みたいなもの)を指すもので、一人の人格ではない。したがって記紀神話の「国譲り」は「天孫降臨」の前提であった。天孫という神武の勢力が恐らく南九州あたりに本拠をもつ(それ以前の来歴はわからない、中国の圧迫や王国の戦争から逃れてきた朝鮮系渡来亡命貴族だったかもしれない)豪族だったからで、日本の中枢である大和の葦原中原に進出することが長年の戦略であった。古事記には饒速日命の帰順の印として「天津瑞」を神武に献上したというが、物部氏の記録である「先代旧事本紀」にはこの「十種神宝」の詳細が記されており、これが天皇家の「三種の神器」(鏡・剣・勾玉」に進化したようである。神器とは呪術の小道具であった。魏志には卑弥呼が呪術をよくしたシャーマンであったといわれるが、出雲勢力の物部氏は大和王朝の神祇部門になって生きようとしたことが伺える。天皇家が仏教を採用する聖徳太子と蘇我氏(新進出雲勢力の一つであった)の時代になって、物部氏が激しく抵抗し結局滅亡したことは良く知られた歴史である。この饒速日命の出自も「先代旧事紀」によると、奈良県郡山市矢田坐久志玉彦神社を本拠地とした豪族で、本来出雲系の邪馬台国連合の王のような存在であったと考えられる。

 天孫系の大和王朝の創始者である神武天皇と出雲勢力との関係と、国家の確立(伊勢神宮の成立をもってする)を見て行こう。古事記によると橿原宮で即位した神武天皇はまず、三輪山の大物主神の娘と結婚したという。これはまちがいなく政略結婚の典型で出雲勢力を取り込み、大和の国を支配してきた出雲族の服従を意図したものであったというべきだろう。その後も「御肇国天皇」といわれる崇神天皇が、尾張連や物部といった出雲一族の娘と結婚を繰り返し、垂仁天皇も丹波国の出雲一族から姉妹を迎えている。結婚と言うことは即ち血の融合(領土)であり、神武系と大国主系の融和(支配関係)の確立であった。「飴と鞭」政策の強面の策として、崇神天皇は「四道将軍」を派遣し、服従しない各地の出雲族の征伐を行った。北陸道(越国)、東海道(尾張以東)、西道(吉備国)、丹波道(丹波・丹後から出雲へ)の武力征討を行なったのである。この過程で景行天皇の息子である倭建命は近江で殺されるという悲劇物語が挿まれている。天孫系の神武勢力の守り神は天照大神=鏡であった。日本書紀天孫降臨で述べられているように、天照大神を社殿に祭紀するために、豊鋤入姫と倭姫のふたりが継続して各地を巡行する話がある。どこに天照大神を祭るかで近畿中はもちろん尾張までさ迷い歩いている。これは何を意味するのであろうか。男の神であれば間違いなく征伐戦争であろうが、女の神が各地を歩くと言うことは伊勢神宮建設のための勧進(寄付金集め)と、経済的基盤の整備と出雲系豪族の服従の証を求める旅であったとみてよい。行くところが大体かっての出雲勢力の範囲であったからだ。出雲系の神は「石坐」で、天孫系の神は「鏡坐」である。伊勢の出雲族が天孫系の伊勢神社の建設に係っていたことに服従の意味が認められ、五十鈴川に朝熊神社という出雲系の神が祭られているのである。伊勢の出雲系豪族の一部は更に信濃へ逃げ落ちた。諏訪神社に出雲系の神が祭られている。神殿の構造は出雲系は「心御柱」を持つのに対して、伊勢神宮系は「神明造」と呼ばれ心御柱を持たない特徴がある。伊勢神宮の建設は、大和中原の支配が完成された象徴的なエポックであった。

(つづく)