ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

中国製の冷凍ギョーザ事件  検出メタミドホスの不純物鑑定終わる

2008年02月16日 | 時事問題
asahi.com 2008年02月16日03時07分
検出メタミドホス、日本品にない不純物 科警研が鑑定
 中国製の冷凍ギョーザによる中毒事件で、千葉・兵庫両県警の共同捜査本部が押収・収集した商品から検出された有機リン系農薬成分「メタミドホス」には、不純物や副生産物などが混じっており、日本国内で試薬として流通している純度の高いメタミドホスとは異なることが警察当局の詳細な鑑定でわかった。中国の工場内で密封された包装の内側から検出されていることなどと合わせ、メタミドホスは中国国内で混入した疑いが一段と強まったと警察当局はみている。

asahi.com 2008年02月15日15時00分
メタミドホス、根強い人気 禁止後も闇取引 中国農村部
 中国製冷凍ギョーザの中毒事件で、商品に混入されていたメタミドホス。中国では販売も使用も禁じられているが、ギョーザ製造元の「天洋食品」がある中国・石家荘市の郊外では、農民が今もメタミドホスを使っている。安い上に殺虫効果が高いため根強い人気があり、ヤミ取引されているのだという。 同市郊外には、小麦やトウモロコシ畑が広がる。農家の40代の男性にメタミドホスがあるか尋ねると、中身が入ったメタミドホスのビン2本を見せてくれた。男性は「禁止されたのは知っているが、実は今も店で買える。1本7~8元(1元は約15円)。殺虫効果が強く、多くの農家が使っている」と明かした。

化学物質の不純物鑑定は、GCーMS分析法によって指紋分析が可能
GC-MS(ガスクロー質量分析器)によって、化学物質のメイン物質以外の不純物を分離して同定する事ができる。データが揃っているならば製法や製造会社そして製造年月日(ロット生産のため)まで追跡できる。しかし中国の科学捜査の現状はよく知らないが、かって北朝鮮が拉致被害者の骨のDNA分析を全く理解できなかったように、中国でこの方法が実用レベルにあるかどうかわからない。日本側が事実を公開して中国と協力すれば案外な時点で、この事件は伸展するかも。今のところは中国は日本がどこまで決定的事実を持っているかを伺っているところであり、日本側にたいした事実がないと分れば知らぬ存ぜぬで闇に葬るのではないか。犯人探しは中国の権力内にあり、日本の警察は踏み込めない。

日教組教研集会会場問題で、連合がプリンスホテル不使用運動

2008年02月16日 | 時事問題
asahi.com 2008年02月15日22時25分
プリンスホテルの不使用呼びかけ 連合
 日本教職員組合の教育研究全国集会をめぐり、グランドプリンスホテル新高輪(東京都港区)が会場使用を拒んだ問題で、連合は15日、プリンスホテル系列の施設を利用しないよう呼びかけることを決めた。事実上の不使用運動で、「プリンス側が社会的責任を明確にするまで当分の間続ける」という。
 連合が傘下労組や関係団体に不使用を呼びかけるのは近年では例がなく、古賀伸明事務局長も「異例の対応」と話す。春闘の勉強会などですでに予約していた数件もキャンセルするという。

asahi.com 2008年02月02日
日教組、全体集会開催を初めて中止へ ホテルが使用拒否
日本教職員組合(日教組)の教育研究全国集会をめぐり、グランドプリンスホテル新高輪(東京都港区)が会場の使用を拒んでいた問題で、日教組は1日、使用できるめどが立たないとして、2日午前の全体集会を中止することを決めた。1951年に始まった日教組教研集会で、全体集会が開かれないのは初めて。

右翼と警察の癒着を糾弾すべきで、迷惑を蒙るホテルに対する組合側の報復行動は筋違い
毎年日教組が教研集会を開く時、右翼が街宣車をだして周辺路上でがなり立てるので迷惑している。ホテル側も迷惑だし、日教組側も迷惑である。警察は迷惑防止法を楯に取締りを強化し街宣車を排除または逮捕すればいいのだが、まじめに警察はやろうとしない。何十年同じ光景を見てきたが、右翼と警察は癒着しているとしかみえない。労働側がホテル側をせめてみても詮のないことで、会場を貸すところが減るばかりである。それなら学会のように大学を借りるとか何か手はないものか。少なくとも連合がホテルに報復を加えるのは大人げないどころか逆効果である。
そしてこれは本質的なことではないが、組合が全体集会をプリンス新高輪と云う高級ホテルを使用すると云うのにも何か違和感を覚える。なにせ貧乏人なもので。

読書ノート 上田篤著 「都市と日本人」ーカミサマを旅するー 岩波新書

2008年02月16日 | 書評
都市とはカミサマがいる場所 カミサマとは国つくりに貢献した人 第四回 

東京の神殿「皇居」

 皇居は言うまでもなく徳川家の千代田城であった。そこに明治維新後薩長に担がれた天皇が京都からのこのこ入ってきたのである。間違いなく皇居は新都東京の中心たる宮殿であり、荒人神のおはす場所となった。日本の都市は中国や中央アジアやヨーロッパと違って城壁をもたない。城とは中国では都市のことである。日本の都市は城壁は持たなかったが宮城はあったのである。戦国江戸時代の城下町(お国の首都、領主のいる場所)はすべからく城が中心にあった。これはよく言われるよう日本では異民族による略奪侵略がなかったせいである。むろん中世から戦国時代には領主間の戦争があるたびに町は焼かれたが、農民を殺しつくすことが戦争の目的ではなかった。むしろ農民らは戦争を見物していた気配もあったのである。そして本書の趣旨に矛盾するようだが、平城京以来日本の都市には城壁も神殿もなかった。神殿は離れた伊勢神宮にあったのである。すると天皇のいるところ御所が宮殿ともいえる。御所内で天皇はいろいろな神事を執り行うからだ。ということで皇居は宮殿である。「東京の中心は空虚である」といわれる。真空地帯という人もいる。つまり天皇制自体が奈良時代から「象徴性」であって天皇は「神聖」で「親政」していなかったのである。血刀を握った天皇が親政していたのは飛鳥時代までである。奈良時代から権力の実権は藤原氏が握っていた。天皇は生殖器官と化していた。この伝統は明治維新のときにも受け継がれ、天皇は統帥権を有する主権者といわれながら御前会議で政事に発言することも許されなかった。

読書ノート 中西正司・上野千鶴子著 「当事者主権」 岩波新書

2008年02月16日 | 書評
「自分のことは自分で決める」という声が、次世代型福祉を生んだ  第四回

1:当事者運動が達成してきたもの (1)

 障害を背負ったというだけで社会から保護という名目で排斥され、家庭や施設と言う函のなかで無為の生活を強いられるのか。地域の中で生活したいという願望がやがて、みずからの人生の主権者であり自己決定と自己選択によって生きてゆくという宣言となった。これが自立生活運動である。1980年カナダで国際リハビリテーション会議が行われたが、障害者が各国の過半数参加を占めるべきだという意見が出たが、執行部は「専門家」主権の考えに固執し障害者を発言者とは認めなかったので、「障害者インターナショナル」DPIが発足した。障害者が「吾らの声」をあげたのは1972年米国において「自立生活センター」CILが生まれた時である。日本では1970年府中療育センターにおける障害者人権侵害反対闘争が始まりである。1986年には始めて本格的な自立生活センターである「ヒューマンケア協会」がスタートし、1988年には全国個的介護保障要求者組合が作られ、1991年には「全国自立生活センター協議会」JIL結成に合流した。「全国自立生活センター協議会」は2003年時点で全国に計125団体の組織を立ち上げ、さらに60箇所の組織立ち上げを支援している。「全国自立生活センター協議会」の運営委員は51%が障害者即ち当事者である。介助者派遣事業、ピアカウンセリング、自立生活プログラム、住宅斡旋・改造サービスという四つのサービスを提供している。

 自立生活とはどんな重度の障害を持っていても、介助などの支援を得たうえで、自己選択、自己決定に基づいて地域で生活をすることである。ここで障害者には介助、高齢者には介護という言葉を使用する。介助では主体は障害者にあり、介護では当事者は対象になる。1986年八王寺市の「ヒューマンケア協会」の発足が日本での自立生活センターの始まりである。有料の介助サービス事業を始めたのである。それまでにはボランティア活動、時間貯蓄制度などがあったが、障害者が市町村から補助された支援金を(2003年に始まった支援費制度)、サービスを供給する人に支払うという制度により、障害者は精神的に自立できるのである。「ありがとう」、「すみません」という言葉をいい続ける必要はないのである。自立生活センターは社会に障害者の要求を訴える運動体であるだけでなく、その要求を自ら満たす事業体としての性格も持っている。「ピアカウンセリング」は当事者が自立するためのもっとも基本的なサービスである。トレーニングや宿泊体験を繰り返して自立生活のイロハを取得する過程である。ピアカウンセラーは心の問題から制度や設備の問題まで、自立に生活を支援する総合的なケアマネージャである。在宅で介助を受けながら自立生活をしてゆけるならば、不要な施設という函物を作る必要もない。サービスは週18時間内という上限も撤廃した。

文芸散歩 「今昔物語 」 福永武彦訳 ちくま文庫

2008年02月16日 | 書評
平安末期の説話文学の宝庫 さあー都大路へタイムスリップ  第四回

六話 「人質の女房が力を見せる話」
前段と同じ庶民の怪力伝。甲斐の国の大井光遠と云う相撲人の妹がまた怪力の持ち主であった。ある日人に追われた男がこの女房の部屋に逃げ込んで、女房に刀を差し当て抱きしめて人質に取った。ところがこの女房が指先で矢柄を潰すのを見て恐れをなした男は一目散に逃げ出した。とんだ怪力を見て女房にひねり殺されるより逃げるが勝と見た話。

七話 「田んぼの中に人形を立てる話」
高陽の親王の京極寺荘園で、ある夏ひどい日照りで田んぼも賀茂川も干上がってしまった。親王は四尺ばかりのからくり人形を作って田んぼの中に置いた。両手に抱えた器に人が水を注いで一杯になると顔に水をかけると云う人形だった。面白がった見物人は毎日水を持ってきては人形に注いだ。そして親王の田には水が満ちて旱魃を避けられたと云う話。できた話だが、細工の上手、腕のよさが危機を救ったということだ。

八話 「絵師が大工に敵討ちをする話」
百済の川成という絵師と飛騨の工という大工の技量の較べ合いの話。大工の作った4面の堂に入ろうとすると扉が閉まる仕掛けと、そっくりの死骸の絵に驚かされると云う話である。前段と同じ工の腕のよさを讃える。

九話 「碁の名人が女に負かされる話」
殿上法師仁和寺の寛蓮は醍醐天皇の碁のお相手をする名人で世の評判であった。内裏から仁和寺への帰途、ある女に誘われて碁の勝負をしたが、置目なしで寛蓮の石は散々に囲まれては殺された。恐れをなして寛蓮は逃げ帰ったと云う話。その女の正体は分らず終い、変化の者かも知れないと取り沙汰された。名人の上にも名人がいるという戒めか。

十話 「瘡を治させて逃げた女の話」
典薬頭で腕のいい医師がいた。貴人らしい女が股のできものを治して欲しいとやってきたが、医師は後でものにしようとスケベ根性で、懸命に治療して瘡は治ったが女には逃げられたという残念な話。大笑いになったのは医師の方で、女は賢明だと専らの噂。文章は結構艶めかしく書かれている。