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梶原和義のブログです。

2011-06-02 17:52:48 | 日記
ユダヤ人を叱れるのは日本人だけ

 般若心経の思想を正確に捉えることは、なかなか難しいのです。般若心経の思想が正しく捉えられないと、結局、聖書が分からないのです。
 命が分からないのです。命とはどういうものか。現象的に現われることがいけないのです。私たちは肉体的な条件で命を経験させられていますけれど、これが根本的なハンディーキャップになっているのです。
 命は肉体的な条件で経験してはならないのです。命は本来無形のものであって、霊です。宇宙の本質です。これはまだ完全に現われていないのです。
 イエスはかろうじてそれを現わした。この場合でも、イエスは人間という角度から命を現わしただけです。イエスほどの人物でも、命を現わしたらいいのか、よく分からなかったようです。
 聖書は次のように述べています。
 「よくよくあなたがたに言っておく。子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない。父のなさることであればすべて、子もそのとおりにするのである。なぜなら、父は子を愛して、自らなさることは、すべて子にお示しになるからである。そして、それよりもなお大きなわざを、お示しになるであろう。あなたがたが、それによって不思議に思うためである」(ヨハネによる福音書5・19、20)。
 イエスが生きていることが、人間には分からないのです。イエスでさえも、命を完全に示したわけではありません。復活して、現在キリスト紀元の土台になっているというこれほどの達人でも、命を完全に示していないのです。
 人間歴史六千年の間に、ただ一人現われた命の提示者であり、また説明者であり、信仰の導き手であり、それを全うした者、そして死を破ったイエスでさえも、命を完全に現わしていないのです。
 命はイエスが生きていた程度のものではない。もっと大きいものです。
 孔子や孟子には定説があるのです。聖書の勉強には定説がありませんので、無限に前進する可能性があるのです。しかし、聖書の勉強には全く定説がないかと言いますと、そうばかりとは言えません。
 ヨハネの黙示録の終わりの方に、命の文と言っています(20・12)。命の文に名が記されている者だけは、間違いなく神の前へ行きます。名が記されていない者はだめだと、はっきり書いているのです。皆様も命の文に名が書かれるように、勉強して頂きたいのです。
 皆様に、本当の従順さを持って頂ければ、命の文に名が記されることが、実現するのです。自分でいくら分かったと言っても、神の前に通用しない分かり方ではだめです。
 神とは何であるか。神の前に通用する生き方とはどういう生き方かということです。
 釈尊の言い方は空であって、彼の主張は何もないのです。一切空となると問題外です。人間のあり方を認めようとしないのですから、もう何をかいわんやです。釈尊以外の人間は、皆自分のあり方を持っている。それが間違っているのです。
 ソクラテスもアリストテレスも、プラトンもマホメットも、彼らが言ったことは命ではありません。世界中に命の文がそのまま伝えられたことがないのです。
 イエスの時代には旧約聖書だけしかなかったので、イエスは新約聖書を一頁も読んでいません。厳密に言えば、イエスは新約聖書を知らなかったのです。
 イエスが生きていたことを、そのまま新約聖書は書いていますが、イエスの心の中まで書くことはできないのです。
 新約聖書はイエスの行状を書いています。マタイはマタイによる福音書を書いていますが、これをイエスが良しと認印を押すかどうか分からないのです。
 私たちが本当に命の文に自分の名が書かれるようにしようとすると、真剣に勉強しなければならないのです。
 日本では有難いことに、御破算で願いましてという言葉が通用するのです。これをして頂きたい。これは難しくないのです。
 まだ、孔子も孟子も、釈迦も、イエスのような達人でさえも、命について本当のことを言っていないのです。隠していたわけではありません。父のなさることが、命そのものです。イエスは命を見て、そのとおりに行っていたのです。
 イエスは生ける神の子として、地上に生まれて、世間の人間と全然違った生き方をしていたのです。その人が父のなさることを見て、生きていた。その生き方が正しかった証拠に、死を破って甦ったのです。イエスが死を破って甦ったことを考えてみますと、それはイエスだけであって、私たちは典型として、イエスを捉える以外に命の文に係わりようがないのです。
 ところがこのイエスが復活して、救いの典型を私たちに見せてくれたけれども、復活というのは一体どういうことなのか。これは言葉で言えば死んで甦ったということになるのですが、宇宙の命から見ると、彼は復活したというより、命そのものをはっきり出しただけのことです。人間の側から言えば復活になります。
 この世に生きていたイエスは、完全な命を完全に生きていたのではないのです。不完全な肉体的なあり方で、なるべく完全に生きるべきだと考えて、父のなしたもう所を見て、行うと言っているのです。
 こう言っているのは、人間としてイエスです。復活以前のイエスがそう言っているのです。復活した時に、初めて、命という実物が、死なない形で現われたのです。復活以前のイエスは、死ぬ形で生きていたのです。死なねばならない条件で生きていました。
 復活後のイエスは、死なねばならないという条件を脱ぎ捨てて生きていたのです。人間のレベルで言えば復活になりますが、命の観点から考えますと、復活ではないのです。
 命はこの地球上に、完全な形で現われたことがありません。イエスの復活において、初めて、命を経験した人物が現われましたが、この世に僅か四十日間いただけで、天に上ってしまったのです。そうすると命は現世とどのような係わりがあるのか。私たちがその命に与るとすれば、どういう思想を持てばいいかということです。
 このためには、東洋とか西洋とかを考えていてはだめです。
 私たちは今、生きています。生きているのは命を経験しているのですけれど、人間という立場から命を経験しているために、人間というのが邪魔になるのです。人間という条件でしか物がみえない状態を突き付けられているのです。この角度から見ますと、創世記の第一章の見方が全然違ってくるはずです。
 本当に神の国をつかまえようとすると、私たちが人間であるという感覚から抜け出さなければいけない。これが五蘊皆空です。般若心経の五蘊皆空と涅槃だけは信用できるのです。ところが般若心経は命のことを一言も述べていません。命の説明をしなくて、涅槃だけを説いているのです。まず皆様が、涅槃に同意して頂けるかどうかです。
 涅槃という言い方を真正面から出しているのは、般若心経だけです。般若心経以外にはありません。これに比べると、プラトンやソクラテスは問題にならないのです。
 ギリシャ哲学はレベルが低いものですし、ましてや西洋哲学においておやです。ドイツ観念論は哲学という資格さえもないのです。全く御伽噺のようなものです。それくらい般若心経はレベルが高いのです。
 涅槃は人間が消えてしまうことです。これに皆様が賛成して頂けるかどうかです。涅槃の心境が分からなくてもいいのです。涅槃に概念的に賛成するかどうかです。
 般若心経は論理的には取り上げられていますけれど、実感的に具体的に、究竟涅槃を取り上げていないのです。究竟とは突き止めるとか見極めるということです。涅槃を突き止めるという感覚で、般若心経を読んでいる人は、日本には一人もいません。もし涅槃を突き止めたら、あほらしくて衣を着て、寺に座っていられないのです。衣を着て寺に座っている坊主は、般若心経を信じていないのです。
 今皆様が生きている命は、譬の命です。肉体的に生きていることによって、命をつかまえるチャンスがあるかもしれないと、神は考えているのです。
 私たちは譬として生きています。本当の命を経験しているのではありません。人間として生きているということが、譬として生きているということです。
 人間として生きていたらだめです。人間として生きているという条件がありますから、本当の命とは違います。そこで、人間という条件を出てしまわなければ、命は分からないのです。
 イエスが心を騒がすな、神を信じ私を信じよと言っているのがそれです。人間として自分を見るなというのです。ビリーブ・イン・ゴッド(believe in God)、神において自分を見よと言っているのです。神において自分を見ると、自分が消えてしまうのです。
 自分が消えてしまうというこの感度にまで勉強しようと思えるかどうかです。世間の宗教は全然命を取り上げていないのです。
 皆様は現在、譬として生きておいでになります。譬として生きているということはどういうことか。譬として生きておいでになることの中に、本物の命が含まれているのです。
 譬というのはどういうことかと言いますと、本物が含まれていますけれど、それがそのままで実体ではないという意味です。
 一万円札は一万円のお金と同じ効力を持っているのです。だから金貨で一万円持っていても、一万円札を一枚持っていても同じことなのです。札で持っていても、金貨で持っていても、何か物を買う時になると同じ価値にしか、通用しないのです。通用しないけれども、金貨の場合には金という本物です。一万円札の場合は、金貨に対する譬になっているのです。そういう意味になるのです。
 人間とは一万円札で生きていることになるのです。しかし本当の金貨ではないのです。したがって、一万円の価値は持っているし、通用しますけれど、本当のお金ではないのです。日本政府が保障している紙幣です。
 皆様の人生は本当の命を持っています。しかし人間として肉体を持ったままで生きていますと、札として生きていることになるのです。
 自分が生きていることが、そのまま金貨であるかというと、金貨ではないのです。そこで皆様の生きざまを翻訳する必要があるのです。
 人間として生きている状態を翻訳するのです。翻訳しなければ役に立たないのです。翻訳すると命になるのです。翻訳しないままで生きていたら、死ぬだけです。翻訳する力があるものだけが、神の国へ行けるのです。
 皆様が譬として生きておいでになりますが、誰でも死にたくないと思います。なぜ死にたくないと思うのでしょうか。死にたくないと思う気持ちの根本を見ていきますと、命が分かってくるはずです。死にたくないというポイントは、命そのものを実感しているからです。
 太陽の光が輝いています。これは人間の魂に非常に大きい希望と力を与えてくれるのです。太陽の光線は間違いなく命を示しています。具体的に示しているのです。もし太陽の光線に同化することができるなら、死ななくなるのです。
 太陽の光線には死なない命がそのまま現われているのです。死なない事実を経験しているのです。
 春になれば花が咲く。秋になれば紅葉が見られる。冬になれば雪が降る。特に明確なのは男女の恋です。これはピンとくるのです。男女の愛は、太陽よりも、雪月花よりも、もっと強い感覚で私たちにアピールしているのです。
 この実体は何であろうか。園児や幼児の年齢層では、親子の係わりがそのまま男女の係わりと同じ認識を持っているのです。思春期以上になると、男女の係わりになってくるのです。これは太陽の光線よりも、もっと具体的に実体的な形で、命を示しているのです。
 人間はそういうものと別れたくないのです。これが死にたくないという気持ちになっているのです。
 人間が生きているというのは、そういう具体的な生活の中で、命の実物を経験しているということです。太陽の光線に対する人間の感覚、愛の係わりは命そのものなのです。これは譬ではないのです。男女の愛の係わりは命そのものなのです。これは譬ではないのです。
 譬の部分と譬ではない部分とがあるのです。霊の部分と肉の部分と両方あるのです。霊と肉を仕分けて、しっかりつかまえることができれば、現世で生きているままの状態で、死なない命をつかまえることができるのです。
 イエスはそれを実行したのです。だから彼は復活したのです。
 今、皆様が肉体的に生きているということは、死なねばならない条件で生きています。死なねばならない条件で生きているということは、仮の姿であって、本物の命ではないのです。
 仮の命であっても、大切にしなければなりません。仮の命は本物の命を見つけるための手蔓ですから、仮の命は大切にしなければならないのです。仮の命を失ってしまうと、本物の命を掴まえられなくなるのです。ですから仮の命はできるだけ大切にする必要があるのです。
 目が見えて、脳波が働いている限り、本当の命を掴まえられる可能性があるのです。現世に生きていなければ命が掴まえられないのですから、魂の責任として、何とかして、一日でも、二日でも命をのばして、神をできるだけ深く掴まえなければならないのです。人間にはそれができる力が与えられていますから、是非そうしなければならないのです。
 この世に生きていることがおもしろいのではない。この世に生きていれば永遠の命を掴まえられる可能性がありますから、死んではいけないのです。
 命が分からずにこの世を去りますと、ひどい目にあうでしょう。皆様は太陽光線によって、空気や水によって、森羅万象のあり方、四季おりおりの食物によって、男女の交わりによって、永遠の命の実物を経験しておいでになったのです。経験はしていましたが、その内容を具体的に掴まえていなかった。だから死んでしまうのです。そこに刑罰があるのです。これが恐ろしいのです。
 うどんを食べたらうどんの味を覚えていて、このようにおいしかったということを、神に報告しなければならないのです。
 うどんを食べてどんな味だったかと言われると分からないではいけない。うどんを食べた責任がありますから、その味を神に報告しなければならない義務があるのです。それをしない者は、必ず魂の審判を受けることになる。これが地獄です。地獄へ行きたくない人は、どうしてもうどんの味をできるだけ正確に、神に報告する義務があるのです。
 うどんを食べるという形で人生の実体を経験しておいでになるのですから、知らぬ存ぜぬでは通らないのです。七十年も八十年も、長い人は九十年も百年も食べてきましたから、その味を神に報告しなければならない義務があるのです。
 正しく報告できればいいのですが、報告できなければ、長い時間をかけて、その味の意味を考えさせられるのです。これが地獄です。その時は七十年や八十年ではありません。永遠という長い時間をかけて、もう一度人生の記憶を点検させられるのです。これを徹底的にやらされます。
 ですから、皆様が生きている間に、経験した意味をこれだったのかということがはっきり分かれば、地獄へ行かなくてもいいのです。
 日本人は現世に生きている状態で、命を掴まえることが、西欧人やアラブ、アフリカの人々に比べると、比較にならないほど上手なはずです。
 例えば「神は愛なり」という言葉がありますが、愛という言葉の解釈でも、「正しい者にも正しくない者にも、一様に雨を降らせ、日を照らす」。これが神の愛だと言っているのです。
 太陽を見て、これが神の愛だという考え方は、白人でも分からないことはないのですが、考え方の深さが違うのです。
 日本人の場合は違います。例えば俳句に現われているような感覚は、大自然の持味を命の味として噛み分けることが、俳句の特徴です。生きているという持味を、命の味として、また、魂の経験としてそれを受け止める。人間としての味わいではなくて、魂としての味わいとして、四季風物の折々として受け止めることができるのです。
 これはできる人間とできない人間とがあるのです。俳句のような考え方を、日本人以外の人にしなさいと言っても、できないでしょう。
 涅槃という思想は、欧米社会では分かりにくいでしょう。言葉としては、冷えて消えてなくなってしまうことですから、説明すればお分かり頂けるかもしれませんが、実感が持てないのです。
 日本人は説明を聞けば、言葉の意味は分かります。いわゆる事訳として、言葉の訳を知ることはできますが、それが実行できないのです。お茶を飲んで、その味が俳句のような感覚だと、実行できるのです。この才能があると、涅槃が分かるのです。
 なぜ難しいかと言うと、言語中枢に関係しているのです。人間の大脳の左半分が言語中枢になっています。言葉を捉える。また、言葉を話す中枢が左半分にありますが、これは大脳生理学では言語脳と言います。右半分は直感を司るのです。言語脳の内容がいいか悪いかによって、聖書が分かるか分からないかの違いになるのです。今からでも遅くはない。言語脳の開発の勉強をして頂きたいのです。
 どうしたら開発の勉強ができるか。自覚することです。自分の言語脳は神を捉えるだけの能力があると信じることです。そうすると、自分の精神の力が、人格、命のあり方を転換することができるのです。
 これを聖書では祈ると言います。また、黙想するとか、思うとか言います。思いにて祈り、業にて祈り、言葉にて祈る。霊にて祈るとパウロは言っています。神と交わるくせをつけますと、自分自身のあり方を変えていけるのです。
 神と交わるというのは、自分の精神の働きによるのです。神と交わることができますと、ご自分の命をご自分の言語脳の使い方によって、自由に変えていけるのです。
 これを日本人ができる可能性があるのです。なぜできるかと言いますと、日本人は大自然を通して、言語を聞くことができるのです。なぜできるかと言いますと、日本人の言葉、日本語に秘密があるのです。
 日本語は母音を必ず発音します。日本語は母音が中心です。子音が中心ではありませんから、英語やドイツ語、フランス語の発音がうまくできません。これが日本人の言語脳の独特のあり方です。これを聖書は言葉の清き民と言っています。これは日本人だけの特徴です。
 神は末の時代に、大自然を通して神の言葉を聞き分ける能力を、日本人だけに与えているらしいのです。日本人は不思議な民族です。文明が行き詰まって崩壊しようとしている時に、日本人が持つ言語脳の働きを、新しい文明のために利用しようとしているようです。
 日本人はスズムシやマツムシの鳴くのを、声として聞けるのです。虫の声として聞くのです。欧米人は音して聞く。声として聞けないのです。
 声というのは言葉です。なぜ日本人が虫の声が聞けるかというと、日本人は毎日言語脳の訓練をしているからです。子音だけでなく、必ず母音の発音をするのです。
 日本人は一語一語を、母音的に発音しないと気がすまない。だから言語脳が発達するのです。だから、スズムシの鳴くのが、声に聞こえるのです。
 スズムシの鳴くのが声に聞こえるというのは、月の光が声に聞こえるということです。音が見えるのです。これが観世音です。日本人は観世音になれる特徴を持っているのです。これは世界にない民族の特徴です。
 言語脳が発達していないと、春の桜、秋の紅葉が声として映ってこないのです。芭蕉の俳句のようなものができないのです。芭蕉の俳句は、大自然から流れている声、命の声を捉えているのです。大自然から流れる命の声を捉えて、詩にしているのです。これが俳句です。
 日本人にとっては、人間の普通の生活行事が哲学になっているのです。五官によって神のあり方を捉えることができるのです。
 人間が生きていることが、直に神と交わっていることなのです。生きていることは神と対話していることなのです。これが祈りになっているのです。
 人は一人で生きていません。神が私を生かしているし、神が生かしている命を、私が受け止めているのです。与える者と受け止める者と、一つになっているのが、生きていることなのです。これを掴まえるのです。これができるという自惚れをもって頂きたいのです。
 自惚れが上手か下手かが、神を掴まえることが、上手か下手かの関係になるのです。自惚れが下手な人は、神を掴まえられないのです。命に対する純真な自惚れは、神が大歓迎するのです。これは赤ん坊がにこっと笑うと、親が大喜びをするのと、同じ理屈です。
 自分は神の言葉が分かると思って頂きたい。自分は命を通して、神と交わることができるとお考えになると、神は大変喜んでくれるのです。世界でこれができるのは、今の所日本人だけです。
 神は物を言っているのです。太陽光線は神が物を言っているのです。暑い寒いというのは、神が物を言っているのです。これが理解できますと、命を通して自分に語っている神の言葉が分かるのです。これが分かると、命の文の中へ入っていけるのです。生きていることは命の文です。これを掴まえるのです。
 命の文に、一番邪魔になるのは、自分という人間です。自分が生きているという気持ちが、自分の心を妨害するのです。自分が生きているという気持ちが、表面に出てきますと、命が分からなくなり、神も分からなくなるのです。
 自分が生きているという感覚と、人間社会があるという感覚があるために、透明な魂が分からないのです。
 人間がいるのではない。魂の実質が、人間として現われているのです。ところが、人間がいる。自分がいると思っています。自分という存在と、人間という意識が、皆様を拘束しているのです。これが大変悪いのです。
 自分が自分を拘束しているのです。勉強しても、魂の命になっていない原因は、やはり自分が勉強しているからです。人間として勉強しているからです。
 人間社会はありません。もちろん自分もいません。般若心経でいう五蘊皆空、涅槃というのは、人間を認めないという思想ですから、大した思想です。
 人間の思いは、良くても悪くても、全部五蘊です。目で見ていることが色蘊になっていくのです。
 目で見ているとおりのものがあると思っている。人間社会があると思っている。これが間違っている。受想行識が間違っている。今の文明に一番必要なことは、五蘊皆空です。自分という人間がいるために、目潰しにされているのです。
 自分が分かるとか分からないとかを考えずに、命に目をつけると、命の実体に目が開かれてくるのです。命を見る目が開いてくるのです。
 自分が生きているという命の実物に、目が開くのです。そうすると分かるとか分からないということではなくて、自分が生かされていることの内容が分かってくるのです。
 皆様が五官で経験されたことは、自分の五官で経験されたのです。自分という人間の五官で経験されたのです。自分という人間を基礎にして見ておいでになったのです。
 太陽の光線を見たことは、間違いないのです。それを自分で経験していることがいけないのです。
 私たちは好むと好まざるとに係わらず、自分という人間がなければ、太陽の光線は経験できません。これはいいのです。
 そこで皆様は、太陽光線を経験したというお気持ちの中から、自分が経験したというセンスを引いてしまわなければいけないのです。これができると、皆様は人間ではなくて魂になるのです。
 自分が経験したと思っている間は、皆肉の思いになるのです。これは死んでいる思いです。自分が経験したのではなくて、経験したということがあるのです。ここが重要です。
 例えば男女の問題でもそうです。自分が経験したと思うと皆肉になるのです。姦淫になるのです。ところが、自分という人間が経験したのではない。セックスという感覚から自分を抜いてしまう。そうすると、後に残るのは経験だけです。これが霊です。
 地球には、森羅万象という不思議なものがありますが、これはあるべき道理がないものです。時間と空間というものは、あるべき道理がないものです。これを聖書は、天使の世界と言っています。
 時間、空間が現われる瞬間、例えば雪が降ると人間は空から雪が降ってくると思う。雪は降らねばならない時に降るのですが、そのような自然現象が起きるということの原理が、何かということです。
 人間には生きているという事実だけがあるのです。生きていることにおいて、花を見たり、鳥を見ているのです。生きているということがなければ、花も鳥もないのです。生きているということだけがある。これが魂なのです。
 現象は本来ありません。これがあるのは、闇が淵のおもてに座り込んでできたのです(創世記1・2)。闇が淵のおもてに座り込んだというのは、人間の意識が形のあるものに定着したということです。
 闇が淵のおもてに座り込んだので、しかたなく、神の霊が水のおもてを覆ったのです。
 闇が淵のおもてに座り込んで、闇が現象世界を承認した。これがそのまま人間の運命になっているのです。これは悪魔のことではなくて、人間のことなのです。
 人間の感覚が現象主義になった。しかたなく、神は現象主義的な方法を用いたのです。これが天地創造の原理です。時間、空間が現われている世界は、神が造ったものではありますが、神はこれを認めていないのです。
 神は地球を造りました。人間を造りました。皆様が生きておいでになるのは、被造物にして生きておいでになります。神は皆様を生かしておいでになりますけれど、認めてはいないのです。これをよくご理解頂きたいのです。
 悪魔の間違いをそのまま受け入れたのは、ユダヤ人です、ユダヤ人を通して、悪魔の考えが全世界に広がったのです。今ユダヤ人を叱ることができるのは、日本人だけです。ところが、日本人が日本という国を知らないのです。
 今というのは何か。その実体は何であるか。イエスがその入口をちらっと話しているのです。死を破った人がちょっと言っていますが、その奥は何かです。
 皆様は自分の命の尊さをご存じありません。それは日本社会といういい加減な世の中で、いい加減な生活をしておられたからです。皆様の生活はレディーメイドの生活であって、本当の生活とは違います。
 皆様は人の言った学問ばかりを勉強して、いわゆる学校のテキストを勉強して単位を取った。大学は単なる職業紹介場に過ぎないのです。
 大学を卒業して、一人前の人間だと思っている。大学で習ったのは、本当の知識とは違います。
 本当の知識は、まず人間の命を知ることです。その命に基づいて生活するための知識です。命を知らずに知識を知ることが間違っているのです。命に対する知恵を知り、その知識を知ることです。今の学問は順序を間違えているのです。これはユダヤ人のためです。
 知恵とは何かと言いますと、人間存在の尊さを知ることです。命の尊さを認識することです。
 聖書には、知恵と知識の両方を書いています。これが分かりますと、性の問題も根本的に分かるのです。人間は知恵なしにセックスをしています。だからでたらめなセックスになっているのです。これが女性には分かるのです。男性は知らなくても、平気でセックスをしていますが、女性はおかしいということが分かるのです。
 世の中のあらゆることを否定する。これが般若心経の五蘊皆空です。般若ハラミタとは、彼岸へ行くことですが、彼岸というのは他人のこと、自分ではない人間の生き様をいうのです。
 自分の生き様は此岸です。自分ではない人格、自分のアンチテーゼが彼岸です。
 今、全世界で般若心経を愛しているのは、日本人だけです。日本以外に大乗仏教がないのです。日本だけで法華経、三部経が読まれている。これが日本民族の優秀性です。
 日本には仏法はありませんが、仏教はあります。ミャンマーやタイには、仏教さえもありません。ただ儀式だけがあるのです。仏教の論理はありません。
 日本にはタイやミャンマーのような儀式はありませんが、論理はあります。間違ってはいますけれど、法華経、大般若経、阿弥陀経、阿含経を読んでいる人がいるのです。こういうことは、タイやミャンマーでは一切ありません。ただ儀式だけをしているのです。
 形だけでも、仏教が残っているのは、日本だけです。そこで、仏教の原則である仏法を主張しているのです。
 仏教は釈尊の悟りです。明けの明星を見て悟ったその内容が、仏法です。これが、イエス・キリストの存在と、切っても切れない関係にあるのです。絶対に切れない関係があるのです。
 東洋文明の粋は釈尊の悟りです。これが般若心経に現われているのです。
 釈尊の悟りと、イエス・キリストの復活の二つが、人間存在の尊さを現わしています。この二つ以外に、人間存在の尊さを現わしているものはありません。日本でなければ、一見明星の秘密、イエス・キリストの復活の秘密が解けないという、世界的な事情があるのです。
 ユダヤ人を叱りつけることができるのは、日本人だけです。日本人はユダヤ人を迫害したことは一度もありません。だから、日本人の言うことなら、一度聞いてみようというユダヤ人がいるはずです。
 日本人以外の人が何を言っても、一切聞かないでしょう。バカ者と言って終わりです。問答無用です。日本人に対しては、そう言えない義理があるのです。
 彼岸というのは他人の命、他人が生きている状態を言います。皆様は他人の姿を見ると結構だと思えます。他人だからです。他人は皆、よく見えるのです。自分は辛く見えるのです。これがハラミタです。向こう岸へ渡ろうと思ったら、他人になったらいいのです。
 他人は良く見えるに決まっています。自分を見たら、不幸に思えるに決まっているのです。般若ハラミタとは、他人になってしまう方法を言うのです。
 自分を自分だと思っている間は、だめです。三、四才の子供は、自分が他人にいつでもなれるのです。自分と他人との区別がないのです。他人のおもちゃが、自分のおもちゃと思えるのです。だから人のものをさっさと持っていくのです。
 このお気持ちになると、釈尊とイエスの言うことが分かるのです。
 自我意識は個々にある人間の意識です。自我意識が沢山集まったのが、人間意識です。この世の常識は人間の意識によってできたもので、人間の意識で考えることは、人間的には合理性がありますが、命の本質から見ると非常に不合理です。なぜなら、人間は必ず死んでしまうからです。死んでしまうということが、人間の生き方の不合理性を、如実に言い現わしているのです。
 今という時は、人間しか知りません。神はもちろん知っていますが、神と人間以外に、今が分かりません。今という時が、どうしてできるのかです。
 今はどこからくるのでしょうか。時間が流れています。時間はどこから流れてくるのでしょうか。三、四才の子供のように、単純に拘らないで、自分と他人の区別をやめるのです。
 素朴に単純に、物事の真髄を掴まえるのです。幼児は物事の真髄を掴まえることはできませんが、素朴に単純になることはできます。他人と自分が、同じだという考えを持つことはできます。ところが、物事を深く考えることはできません。皆様はこの世で苦労しておいでになったので、物事を深く考えることはできるのです。
 そこで、この世で苦労しておいでになったということを、うまく利用して頂きたいのです。幼児に他人と自分の区別はありません。彼岸と此岸の区別がないのです。幼児のように、彼岸と此岸は一つのものだという意識で見るのです。
 今はどうしてあるのか。人間のマインド(精神)の恐ろしさに関係があるのです。人間の精神はどういうものか。精神は宇宙に一つしかありません。
 学者も宗教家も、精神の値打ちが分かっている人がいません。イエスは精神の真髄を説明したのです。精神の持ち方の見本を見せたのです。
 ノアの洪水がなぜ起きたのかというと、人間のマインドが悪かったから、人間と動物を皆殺したのです。
 皆様はマインドにとらわれずに、単純に考えて頂きたい。マインドの使い方の根源を、じっと見るのです。
 般若心経に、無限界乃至無意識界とあります。人間が意識する世界は無いと言っているのです。般若心経を読んでいて、これを信じている人は、いないでしょう。仮に頭で理解しても、ハートで受け取らなかったらだめです。
 目で見ている世界は無い、意識している世界も無いとすると、何があるのでしょうか。
 もし自分がなければ、今という時は無いのです。自分がいなければ、今があってもしかたがないのです。
 自分は絶対的なものです。自分の意識は、自分にとっては絶対です。主観的には、自分の考えは絶対だと思っていない。六十三億人の中の一人だと思っているのです。これが間違っているのです。
 六十三億の人間がいるのではない。もし皆様が死んでしまえば、六十三億の人間がいても、無意味です。自分が生きているからこそ、世界の人間がいることの意味があるのです。
 今自分が経験している命は、全人類が経験している命そのものです。例え全世界の人間がいても、自分がいなければ人類がいることが無意味です。
 皆様が救われたいと思われるのは、自分だけが救われたいと思うのではありません。全世界の人間が救われたいと思っているのです。これをキリスト意識と言います。イエスはこういう考え方をしていたのです。自分が神を信じるのは、全世界の人間がそうでなければならないと考えたのです。
 キリストという人格が、人間の生命の遺伝子の根源です。この遺伝子を掴まえたら、死ななくなるのです。この遺伝子を掴まえるためには、世界に命は一つしかないと考えなければならないのです。
 仮に私が死なない命を掴まえても、皆様が死んでしまわれたら、残念無念です。世界中の人間が死んでいくことが、我慢ならないのです。今こうしている時でも、多くの人が死んでいるのです。これに腹が立つのです。
 この世界から、人間が死ぬということを、追放しなければならないのです。ストップ・ザ・デス(stop the death)です。人間が死んでいくということを、ストップしなければならない。なぜ無制限に人間が死んでいくのかと言いますと、ユダヤ人の不心得のためです。ユダヤ人が神を信じないために、世界中の人間が死ななければならない運命に曝されているのです。私はそれをストップしたいと考えているのです。
 世界の歴史から、人間が死んでいくという事実を追い払えないのです。そのためには、ユダヤ思想を根本から覆さなければならないのです。イエスはそう考えました。私も同じ考えをしたいと願っているのです。
 今という時はどこから来るのか。今という時は、心の中から出てくるのです。皆様の命から出てくるのです。
 皆様がいなければ、今はありません。今という時を、六十三億の人間が意識して生きているのです。一人の人間が今を意識しても、六十三億の人間が意識しても、同じことです。
 人間の中から、今という時が出てくるのです。もし人間がいなければ、今を認識する機能はないのです。
 今というのは、今という時間ではなくて、今という意識です。今という意識が、今を造っているのです。皆様方一人一人が、今、今という意識を造っているのです。それをどうして造れるのかを考えてみて下さい。今を造れるというのは、驚くべき人間の尊さを現わしているのです。今という時間は、人間がいなかったらできません。人間は全く驚嘆すべき能力を持っているのです。
 皆様は自分が考えているような、小さな者とは違います。今、今を造る能力は、神そのものです。神は客観的に時間を人間に送っています。しかし人間がいなければ、神がいくら時間を送っても、捉える者がいないので、送りっぱなしになってしまうのです。時間は与える者と、受け取る者と両方なければ、証明されないのです。
 すべてのことがらは、与える者と受け取る者との両者で、成立するのです。
 そうしますと、地球があるというのは、どういうことでしょうか。神にかたどって、人を造ったとありますが、これはどういうことでしょうか。
 神は田中さん、伊藤さんという人間を造ったのではありません。人の子が生きているのです。神の機能をそのまま持っているのが、人の子です。神の英知をそのまま持っている。神の全知全能性をそのまま持っているのです。なぜこれを認めないのでしょうか。
 この世に生まれた山田太郎という固有名詞の人間を自分だと思っている。なぜこんなものを自分だと考えるのでしょうか。日本人であるとか、何年にどこで生まれたのが自分だと思い込んでいる。こんなことを考えるからいけないのです。だから自分の本体が分からなくなるのです。
 私たちは生ける神の子であって、神が与えるものを受け止めることができる存在です。与えるものは父であり、受け止めるのは子です。与える者は男性、受け止める者は女性です。これが本当の性です。
 愛するものは神です。愛されるものは人です。神と人との愛の関係に、目覚めるのです。これが本当の意味での思春期です。男と女の関係は、神と人との関係の模型です。
 人間が生きていることが霊であって、霊なる神と、霊なる人の魂とがあるのです。これがセックスです。このことに気がつく時が、思春期なのです。
 神が本当の異性です。男性から見て女性は同性です。男性と女性の恋愛は、同性愛になるのです。そうすると、男性と女性が恋愛をしてもだめかと言いますと、そうではありません。男性と女性の恋愛を、神と人との関係のように考えればいいのです。これを考えずに、人間と人間とが愛し合っていると思うと、姦淫になるのです。夫婦でも、人間どうしが愛し合っていれば、やはり姦淫になるのです。
 人間の実体は魂です。これは大変なことです。だから死んではいけないのです。生ける神の子ですから、死んではいけないのです。死ぬのはしかたがないと思うのは、大変な間違いです。
 死ぬべき自分を脱いで、他人になるのです。イエスが主であるとは、これを言っているのです。イエスが自分の本体だと考える。時間を認識する力があるとか、食物を見分ける力があるというのは、イエスが持っていた人性です。
 イエスだけが本当の意味での人性を持っていた。人生の正しい掴まえ方を会得していて、正しく生きた。彼は神が父であると考え、自分はその息子だと考えた。人間はこのイエスに同化するしか、方法がないのです。これだけが、死から逃れるたった一つの方法です。
 今というのは現実です。現実が動いている。人間がいるのではなくて、現実がある。その現実を認識する機能として、自分がいるのです。
 現実があって、それを自分が受け取っている。今と自分が一つになっているのです。今と言っても、自分と言っても、同じです。今という時がなければ自分はないし、自分という人間がなければ、今はない。今という時と自分は、一つなのです。こういう考え方が、イエスの世界観です。
 イエスは、神は自分の親父だ、肉なる自分は神の息子だと考えた。親と子の関係はあるけれど、本質的には、神と同じ力を持った自分がいると考えたのです。
 皆様の魂の実体をよく考えて、人間、自分という限界を越えてしまうのです。これが究竟涅槃です。涅槃の中にすっと入って行きます。自分が消えてしまうのです。
 般若ハラミタとは、向こう岸へ行ってしまうことです。神が造った魂が生きているのであって、私という人間ではない。魂はとてもすばらしいもので、後光がさしてあたりまえです。
 自分がいると思っている人は、自分の精神によって魂を押さえつけているのです。それをやめて、魂を解放するのです。そうすると、この世に生まれたままの自分が分かるのです。これは何十年もこの世に生きていて、汚れきったものとは違います。天から生まれたままの赤ちゃんが、皆様の本当の姿です。神の命をそのまま持っているのです。
 今生まれた赤ん坊という気持ちで、生きるのです。これが日の老いたる者です。そういう年のとり方をするのです。
 年齢はありません。人間の迷信です。今まで八十年間生きていたとしますと、その八十年の経験を、自分の魂のために使うことができるとしますと、神の子である自分が分かるのです。魂として使うことができずに、人間としてだけ使うとすると、必ず地獄へ行く悪魔になるのです。
 彼岸へ行かなければだめです。良いことをしても、悪いことをしてもだめです。他人になってしまわなければだめです。そうしなければ、必ず地獄へ行くことになるでしょう。
 自分が生きていた責任を、自分が負わなければならない。他人になってしまえば、自分が生きていた責任がなくなるのです。イエスの人生を、自分の人生にすればいいのです。復活したイエスが自分の主体になればいいのです。
 人間は、今、今と思いますが、なぜそう思うのでしょうか。時が流れています。未来から過去へ時が流れています。今が過去になっていくのです。
 時を流す者と、それを掴まえる者と両方あるのです。両方がなければ、今という時は成立しないのです。
 現実という時間が成立するのは、時を流す者と、流れてくる時を掴まえる者と、両方があることを意味するのです。流れてくる時を認識する力がなければ、掴まえられません。
 時を認識するとはどういうことかと言いますと、時間を流させている神と、それを掴まえる人間とが、同一の意識であることを意味しているのです。同一の意識だからできるのです。これはキャッチボールみたいなことになるのです。
 今という時があることを知っていながら、神が分からないと思っている人を、イエスは偽善者と言っています。皆様は神のやり方を理解できるのです。花を見たり、雲の流れを見る力がある者が、なぜ永遠の力が分からないのかと言っているのです。人間は皆、偽善者になるのです。
 花を見て、花と認識し、その美しさが分かる人は、自分の命の実体が分かる人なのです。そこで、花が咲いている世界へ入らなければならないのです。
 ところが、自分の思いを信じているから、花が咲いている世界へ入れないのです。世界中の人間が、誰も入れないから、困ったものです。
 皆様は今という時が分かります。これはイエスと同じレベルの人間です。イエスが死を破ったのは、自分のことです。イエスは全世界の人間として、死を破ったのです。自分が死を破れば、世界中の人間が死を破れると考えた。イエスが十字架にかかったということは、大変なことをしたのです。
 自分が頑張るのではない。神の処置を受け取ったらいいのです。そうすると、神に対する自分の処置が、神のしたことだと分かるのです。地球を造った神の処置を、自分の命として受け取る。これだけでいいのです。
 神が今という時間を流している。それをなぜ今として受け取れるのか。人間は瞬間的に未来が分かります。これが未必です。未必とは、まだ現われていない未来です。
 未必の現物を掴まえる。これは人間しかできないとです。これが分かると、神が自分をどのようにしようとしているかが分かるのです。イエスはこれを読んでいったのです。神のやり方と同じことをしていった。これが死に勝つ原理です。未必を掴まえたからです。
 未必は神の実体です。これを掴まえるのです。
 自分の考えは皆間違っています。固有名詞の自分の気持ちは、良かれ悪しかれ間違っています。固有名詞の自分の気持ちを信じない訓練をして頂きたいのです。
 固有名詞の自分の考えを信じなくても、心臓は動いています。自分の気持ちを信じなくても、やはり目は見えますし、耳は聞こえます。そうすると、自分の気持ちに関係なく、命が自分の中に働いていることが分かるはずです。だから自分の気持ちを蹴飛ばしたらいいのです。
 自分の気持ちに関係なく、心臓が動いているという命がありますからこれを掴まえたらいいのです。これが自分ではない自分です。
 これが般若ハラミタです。彼岸です。他人になるのです。これが他人になる要領です。
 釈尊は他人になれとだけ言いました。しかしどうすれば他人になれるのか、他人とは誰のことなのかを全然言っていません。釈尊も分からなかったのです。
 釈尊が死んで五百年後に、イエスが生まれて、神の子は世界中で私一人だと言いました。
 釈尊は、やがてイエスが現われることを、五百年前に、明けの明星によって見たのです。これは世界の歴史の流れをよく見ないと、分かりません。
 日本人は世界歴史の流れが分からないから、困るのです。歴史の流れと、文明の状態は、違います。歴史の流れが人の魂の本当のあり方を教えているのです。これをよく見ていきますと、世界全体の流れはどのように流れてきたのか。これからどのように流れていくのか。人間が死んだら魂はどうなるかが、分かってくるのです。
 皆様は、死ぬべき命ではなく、死なない命を神からもらっているのです。死ぬべき命を自分の命だと、勝手に思い込んでいますから、死んでしまうのです。
 自分の気持ちで生きるのは、本当にバカなことです。自分の気持ちで生きるから、死んでしまうのです。
 自分の気持ちで生きるのをやめるのです。これが五蘊皆空です。般若ハラミタです。自分が生かされている客観的な命が他人です。死なない命です。これがイエスです。この命に行くことが彼岸に行くことです。
 私たちはこの命を掴まえるために、生まれてきたのです。