gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

文明が間違った元凶はユダヤ人

2011-06-02 08:13:58 | 日記
人間の味覚とか、視覚、聴覚というのは、魂の働きなのです。魂は死んでもなくならないのです。犬や猫は死んだらしまいになるのです。人間には五官があります。これは人間自身の力ではないのです。人間以上の力なのです。人間を人間としている力なのです。日本ではこれを、お天道様と言っています。
 人間が人間として生きているということは、その原因があるに決まっているのです。
 人間は生まれたいと思って生まれたのではないのです。生まれたいと思わないのに生まれてきて、不思議な五官を持っているのです。理性と良心というものを持っている。理性と良心に基づいて考えることができるという、非常に不思議な力を経験しているのです。これはどこから来たのでしょうか。精神の力をどこでもらってきたのでしょうか。これが分かれば、死なない命が分かるのです。
 魂というのは、英語でリビング・ソール(living soul)と言います。リビングというのは生きているということです。生きているということが、霊魂の本質なのです。生きているという本質をいったい誰からもらったのでしょうか。これが日本人には分かっていないのです。
 命の本源、命の本質的な出所はどこかということです。これを知ろうと思いますと、聖書を信じるしかないのです。聖書といってもキリスト教ではない聖書のことなのです。キリスト教の聖書は、キリスト教的にしか説明しません。
 仏教でもその通りです。日本の仏教は、仏という言葉を仏教的にしか説明しません。仏教の仏は、仏教の中にあります。キリスト教のキリストは、キリスト教の中にあります。これは本当の仏、本当のキリストとは違うのです。日本には、本当の仏ということが分かっている人はいないのです。釈尊の悟りを説明できるお坊さんは、日本には一人もいないのです。
 どこが間違っているかと言いますと、人間の魂がどこから出てきたかということを、全く知らないのです。現在、魂で生きていながら魂がどこから来たのか説明ができないのです。これが説明できないから、皆死んでしまうのです。
 生活に一生懸命になっているから、分からないのです。結婚をして、何かいいことがあったのでしょうか。つまらないことばかりでしょう。やがて死んでしまうのです。商売をしてお金がたくさん儲かった。儲かってそのお金をどうするのでしょうか。
 家を建てたとか、保険に入ったとか、子供を大学へ入学させたとか、そんなことをして何になるのでしょうか。学校へ行くのもいいでしょう。お金儲けをすることもいいでしょう。
 まず知るべきことは、生まれる前に人間の魂はどこにいたかということです。生まれた時に、すでに味覚神経が働いていたとすれば、その味覚神経は、生まれる前にあったものに決まっているのです。
 人間は頼みもしないのに、生まれたのです。生まれたいと思わないのに生まれたのです。誰が生んだのでしょうか。どういう目的で、この世へ出てきたのでしょうか。
 これが分かっていないから、人生に土台がないのです。ふわふわしているのです。上ばかりあって、根っこが全然ないのです。命の根がないから、命についての確信を持つことができないのです。
 困った文明です。こういう文明が全世界にまき散らされた元凶は、煎じ詰めれば一部のユダヤ人ということになってきます。いきなりこういう言い方をすると、奇異に思われるかもしれませんが、歴史におけるユダヤ人の役割を、つぶさに調べていきますと、そう結論せざるを得ないのです。
 一部のユダヤ人がキリストを裏切った。ユダヤ人が神を裏切ったのです。その結果、このような悲運が世界に及んだのです。
 原子爆弾を造ったのはユダヤ人学者です。フランス革命で、自由、平等、博愛、人権ということを言いふらしたのはユダヤ人です。ユダヤ人の政治原理、経済原理、教育原理が、今日の日本の原理になっているのです。だから、今の人間は、命、霊魂ということが全く分からなくなっているのです。
 人の魂は生まれる前に原因があったのです。今、肉体的に生きています。肉体的に生きているためには、その原因がなければならないのです。
 肉体的に生きているというのは一つの結果です。生まれてきたという結果です。生まれてきたという結果が現われているから、生活しているという状態があるのです。生活しているという人間の原因はどこにあるのか。人間の命の原因というものが分かりますと、死なない命が分かってくるのです。
 現在の人間は、肉体と霊魂の二本立の生活をしているのです。だから、何が善か、何が悪か、何が神か仏か、命も死も分からないのです。
 人間の五官の働きは、霊魂の作用のことなのです。甘いとか、辛いとか、目が見えるとか、耳が聞こえるというのは、霊魂の働きなのです。それが五官となって感じられるのです。
 五官は、生まれる前にあったのです。一体どこにあったのか。その場所の名前のことを神と言うのです。神と言わなければしょうがないのです。神ということについて、自分の命について、本当に悟りを開く状態を仏と言うのです。仏になれば神が分かるのです。
 分かる、分からないということを、あまり問題にしないで、自分自身が生きている事実を見るのです。現在、命を持っていながら命が分からないのです。この命を知らない状態で、五十年も六十年も命とつき合ってきたのです。命を一生懸命にかわいがってきたのです。体の調子が悪いとすぐに病院へ行きます。それほど大切に扱ってきた命ですから、その命を見極めるのです。
 命があるのは、原因があるに決まっています。どこかに命の原因がなければ、ここに命があるという結果が発生するはずがないのです。
 今の人間は、命についての知恵が全くないのです。生活の知恵ばかりです。何も分かっていないのです。
 まず魂の目を開く必要があるのです。今までの常識をまず棚上げにして、心の目を開くのです。そうすると、人間がどこから来たかが分かってくるのです。



復活に反対するユダヤ人の宗教観念

 人間が、現在、肉体的に生きているのは、業を経験しているのです。この世へ生まれてきたことが、業なのです。カルマです。カルマとは、ノルマと同じようなものでありまして、人間はこの世へカルマを背負いこんできたのです。
 肉体的に生きている人間は、誰でも、全部、業の下積みになっているのです。これを果たさなければ、本当の命は見ることはできません。こう言いますと、大変に難しいように聞こえますが、我執が悪いのです。我執とは業でありまして、我執を持たないで生きることはできないのです。
 人間は、我執を持つためにこの世に生まれてきたのです。ところが、現在は2010年です。これは歴史的事実なのです。2010年とは、イエス・キリストが誕生してから2010年経過したということです。イエス・キリストが誕生したということは、死ぬべき人間ではない、死なない人間が誕生したことです。だから歴史が新しくなったのです。歴史的事実において、人間のカルマはなくなっているのです。業が消えてしまっているのです。
 つまり、自分が生きているという間違った考え方は、すでに通用しなくなってから、2010年にもなるのです。それなのに、現在の人間は未だに自分が生きていると思い込んでいる。
 キリスト紀元を知るというのは、大変なことなのです。これは、宗教を信じることではないのです。歴史を勉強することなのです。なぜ、西暦紀元がキリストを土台にしているかということです。
 この事実は、学問の中心命題にならなければならないことです。イエスが復活した、死を破ったことは、学問中の学問であって、最高の学問として、世界中の人間が勉強しなければならないことですが、これに反対しているのが、ユダヤ人の宗教観念です。
 ユダヤ人という宗教民族が、イエス・キリストの復活に断固として反対している。これが現代文明を造っているのであって、現代文明では、人間の業は全然説明できないのです。
 なぜ、病気があるのか。なぜ死んでいくのか。なぜ戦争があるのか。なぜ家庭不和があるのか。なぜ学校内暴力、家庭内暴力があるのか。なぜ伝染病があるのか。なぜ、地震、台風、津波、噴火、洪水、旱魃、飢饉があるのか。なぜ砂漠があるのか。なぜ人間の歴史に様々な不幸や不平等、悲しみや苦しみが、満載されているのか。これが人間の業なのです。
 これを味わうために、人間はこの世へ来ているのです。病気は、業の中の一番身近なものです。誰でもこれを避けて通ることはできません。だから、本当の命が分かれば、イエス・キリストの復活がはっきり納得できれば、病気は恐れることはないのです。本当の命が分かれば、死なないから、病気になっても平気です。
 病気は、現在の地球の業なのです。現在の地球に生きているものは、全部病気になります。死んでしまいます。これから逃れるためには、イエス・キリストの復活という歴史的事実を勉強するしかないのです。この世の学問や、宗教、道徳では、絶対間に合いません。すでに、イエス・キリストが人間は死ぬべきものではないことを、歴史的に証明したのです。
 人間が、死なねばならないと考えていた歴史が、新しくなって、キリスト紀元という歴史が始まったのです。この歴史的必然性をよく勉強する必要があります。
 病気は、地球上にいる人間の業なのです。恐れることはないのです。本当の命を見つけたら、病気はだんだん治ります。治らなくてもよいのです。
 人間は、なぜ病気が恐ろしいのか。死ぬから恐ろしいのです。死を乗り越えてしまえば、恐ろしいものは一つもないのです。般若心経の言う、心無礙 無礙故 無有恐怖 遠離一切 顛倒夢想 究竟涅槃となるのです。



ユダヤ人の真似ばかりしている日本人

 皆様は五官の扱い方を誰かから習ったのでしょうか。習わなくても知っているのです。人間は本能を欲望だと思っている。そういう考え方が間違っているのです。そういう教育をしたのはユダヤ人です。日本の教育はユダヤ教育の真似ばかりをしているのです。
 実は学校教育ほど悪いものはありません。学校教育を受ければ受けるほど、魂は盲になるのです。聖書が分からないのは学校教育を受けたからです。
 明治時代に国民の三大義務をやかましく言いました。納税の義務、兵役の義務、教育の義務と言ったのです。ユダヤ人が国を造った時の方法を、日本はそのまま真似たのです。近代日本はユダヤ人の真似ばかりしてきたのです。これを裏返して用いればいいのですが、そのまま鵜呑みにしたのです。
 皆様は料理を食べていながら、味の意味が分かっていません。味は分かりますが、味はどういうものかが分からないのです。美しい景色を見ていながら、美しさとはどういうものかを知らないのです。人間はこれほど愚かです。こういうことを教えてくれる人が日本にはいないのです。日本どころか、世界にもいないから困ったものです。
 人間は五官というすばらしい機能を与えられていながら、その意味が分かっていないのです。学校で何にもならない理屈だけを覚えるのです。そのために、先天的な能力が死んでしまって、後天的な教育が頭につめられるのです。
 義務教育とは何か。いやでも必ず学校へ行かなければならないという義務です。これは魂を政府の力で弾圧していることになるのです。魂の本然性を、政治の力でひねり曲げているのです。これは明治維新によって明治の政府がしたことで、明治天皇の名誉となったのです。
 人は生まれる前に、無意識で神を経験していたのです。無意識の経験を今皆様は、有意識で経験しているのです。
 生まれる前の経験を、聖書は次のように述べています。
 「主よ、あなたは世々われらのすみかでいらせられる。
  山がまだ生まれず、
  あなたがまだ地と世界とを造られなかった時、
  とこしえからとこしえまで、
  あなたは神でいらせられる。
  あなたは人をちりに帰らせて言われます。
  『人の子よ、帰れ』と」(詩篇90・1〜3)。
 人をちりに帰らせたというのは、元の姿に帰らせたという意味です。
 地球の大空にはちりがいっぱい詰まっています。地球で人間が生きていられるのは、ちりのおかげです。目が見えるのも、耳が聞こえるのも、ちりがあるからです。地球の温度が保たれているのは、ちりの作用です。ちりがなかったら、人間は生活できないのです。
 太陽と地球の間に厖大なちりの層があって、強烈な太陽光線が中和されています。ちりがあるおかげで、人間が住める温度に保たれているのです。もしちりがなければ、地上の温度は二五〇〇度から三〇〇〇度になるでしょう。これではとても生物は生存できないのです。
 人がこの世に生まれてきたのは、生まれる前の条件を現世で確認するためです。生まれる前に皆様は無意識でいました。その時の命を、そのまま現世に持ってきているのです。これを生まれてきたというのです。
 人は生まれる前に、神の所に住んでいたのです。「主よ、あなたは世々われらのすみかでいらせられる」とあります。主とはエホバです。エホバとは何かと言いますと、地球があることです。太陽があることです。「有りて在る」ということがエホバです。有も在も両方共神です。あるということが今の学問では分からないのです。科学でも哲学でも、絶対に分からないのです。
 「有」と「在」を分からないようにしたのはユダヤ人です。ユダヤ人は神を信じることができない民族です。そのくせ自分たちは選民であると自負している。選民以外の人間に聖書が分かるはずがないというのです。日本人に神の本物が分かるはずがないというのです。
 皆様が生まれる前に無意識でいた所が古里です。これをつかまえたらいいのです。聖書を勉強するということは、古里を求めることなのです。古里はどこにあるかと言いますと、生まれる前の自分の出性です。
 皆様は五官を持っておいでになります。それをどこからもらってきたのでしょうか。それをどこかでもらってきたに決まっています。五官を自分で製造した人はいないでしょう。五官をもらってきた所へ帰ればいいのです。そうすれば死なないのです。生まれる前の命は死に関係がありませんから、死ぬはずがありません。肉体を与えられてこの世に生まれたから死ぬのです。生まれる前に帰ったら死ぬはずがないのです。
 現在皆様は五官によって、飲んだり食べたりしています。これが神の言です。これさえ分かれば死なないのです。神の言は死なない命です。
 皆様は生まれる前は地のちりでした。聖書に、「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」(創世記2・7)とあるとおりです。
 土のちりは英文でザ・ダスト・オブ・ザ・グラウンド(the dust of the ground)となっていますから、地のちりと訳した方がいいようです。
 地のちりという言い方は現代人には荒唐無稽で御伽噺のように聞こえますが、これは非常に意味深長で、それしか言い様がない適確な表現になっているのです。
 生きたものというのは生きている霊魂という意味です。生きている霊魂は人間とは違います。魂は形を持っていることをいうのです。
 地のちりに形を与えたのです。形がなかったものに形を与えた。地のちりは形がなかったのですが、それに形を与えた。これは人間を造ったのではないのです。
 地のちりになぜ形を与えたのか。形を与えないと神を認識することができないからです。皆様は形を与えられたので、形があるリンゴとか、形があるスイカを食べることができるのです。
 形はあるが肉体はない自分を理解して頂きたいのです。これが霊的な人です。皆様は肉体があるように見えますが、実はないのです。肉体は瞬間、瞬間に生きているのです。血液の循環と呼吸機能が中心になっている。心臓と肺を中心にして、その他の機能が総合的に働いているのです。生理機能の働きが肉体になっている。肉体があるのではなくて、生理機能があるだけなのです。こういうことを正しく勉強していきますと、生まれる前の自分に帰っていけるのです。
 生理機能の働きを霊と言います。霊をそのまま認識すると、生まれる前の自分に帰れるのです。
 霊とは状態をさしています。英語では言えばコンディションです。皆様が生きておいでになる状態は霊です。人間が生きているのは状態であって、肉体ではないのです。生きている状態が目に見えるので、肉体があるように思えるのです。肉体的に生きていると思っている人は必ず死にます。生きている状態があると思っている人は死なないのです。
 自分という人間がいるのではない。生きているという状態があるのです。状態はどこから来たかと言いますと、生まれる前の世界から来ているのです。生まれる前の状態が現世に現われているのです。
 見る、聞く、飲む、手で触れるというのは、皆様が生まれる前に無意識でしていたことなのです。エホバはとこしえにわれらのすみかであるとありますが、神が皆様のすみかだったのです。魂のすみかが神だつたのです。
 「天にいますわれらの父よ」(マタイによる福音書6・11)とありますが、天は霊を意味します。物理的に解釈すれば大空のことになります。大空に皆様の原形であるちりがあるのです。大空の青さは、皆様が生まれる前に住んでいた古里の色です。空の青さ、海の青さは、皆様の古里の色です。大空に神がいる。そこに皆様がいたのです。
 天はどこにあるか。地面から十センチも離れたらもう天です。
 「もろもろの天は神の栄光を現わし、大空は御手のわざをしめす」(詩篇19・1)とありますが、大空とか天は神の根拠地がある所です。神はそこにいるのです。地のちりがそこに一杯入っているのです。
 神は人をちりに帰らせた。かつて、善悪の実を食べて陥罪する前は、アダムという単一人格だったのです。アダムが陥罪した結果、何百億というちりに分解されて、大空に分散した。それは人格を与えられた人が、天使長ルシファーと同じ罪を犯すのを未然に防ぐためだったのです。
 大空に分散された皆様は、そこで神から教育を受けたのです。人間は現世に生まれる前にそこで仕事をしていたのです。ちりの働きをしていたのです。
 人は生まれる前に神と一緒に住んでいて、神と一緒に働いていた。その時皆様は、空の青さ、海の青さになっていたのです。地球が地球となる条件を、皆様自身が造ったのです。その時のことをもう一度認識するために、この世に生まれたきたのです。これが地のちりである人に形を与えたということです。
 生まれる前の感覚が五官になって皆様に植えられているのです。神の言が植えられているのです。
 聖書は言っています。
 「だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言を、素直に受け入れなさい。御言には、あなたがたの魂を救う力がある」(ヤコブの手紙1・21)。
 これは重大な発言です。この箇所が世界中のキリスト教の指導者には全く説明できないのです。心に植えられているという心は英訳にはありません。ただ植えられている御言とあります。この御言が魂を救う力があると言っているのです。
 植えられている御言は何かと言いますと、五官をさすのです。私たちは五官によって見たり、聞いたりしているのです。五官の働きが神の言です。これを素直に受け入れるとはどういうことか。皆様が毎日、見たり、聞いたり、触れたりしている御言を素直に受け入れると、魂を救う力があるのです。
 これが本当の福音であって、人は生まれながらにして神の子なのです。ところが、皆様は神の言が植えられていながら自分が生きていると思っているために、霊魂が死んでいるのです。魂を自分の思いによって殺しているのです。
 皆様の五官の感覚は絶対に間違いないのに、受け止めている気持ちが全部間違っている。自分が生きていると思っているからです。
 もっとつきつめて言いますと、皆様はこの世で与えられた固有名詞を自分だと思っているでしょう。これが間違っているのです。固有名詞の自分を神は絶対に認めていないのです。ところが、固有名詞の名前を呼ばれると、自分のことだと思い込んでしまうのです。神から見ると固有名詞の人間は一人もいないのです。六十三億の人間が一人に見えるのです。
 砂糖をなめると皆甘いと思います。塩をなめれば皆辛いと思います。五官の感覚で考えますと、人間は一人しかいないのです。一人しかいない人のことをイエスというのです。
 皆様は自分がイエスだと思ったらいいのです。イエスと思わない方がどうかしているのです。イエスを信じるというのはこういうことなのです。
 状態が人間の本体です。固有名詞で見るとイエスを信じることはできないでしょう。固有名詞の人間はイエスを信じることができないのです。できないことをしようと思うから無理が生じるのです。
 これが学校教育の弊害です。教育では一人ひとりの人間がいると教えているのです。ところが神から見ると一人ひとりの人間がいるのではない。イエスしかいないのです。個人がいないということが分かると、人間はとても気楽になります。個人がいないから、死ぬ人もいない。死のうと生きようとどっちでもいいのです。
 五官の感覚がイエスです。人間の本性は世界中に一人しかいません。このイエスが死んで甦ったのですから、もう死ぬはずがないのです。皆様の命は死なない命です。死ぬはずがない命を持っているのです。
 少し手間はかかりますが、人間の実質がイエスだということを理解することです。これさえ分かれば死ななくなるのです。まず理論的にしっかり理解して、それが生活で実感になればいいのです。
 命は一つしかありません。神から見てたった一人の命がイエスです。このイエスを見て神は、アイ・アム・ウェル・プリーズ(I am well please. )と言ったのです。
 イエスが洗礼を受けて水から上がった時、ナザレのイエスの肉体が消えてしまったのです。それを神はアイ・アム・ウェル・プリーズと言ったのです。好きで好きでたまらないという意味です。普通の好きとは違います。イエスが生まれる前の姿で出てきたからです。この世に生まれたイエスは、洗礼を受けた時に消えてしまったのです。
 人は神から見ると、生まれる前の人がいるだけです。生まれてからの人間は罪人です。悪魔の子分ばかりです。自分の肉体があると思っているのは、すべて悪魔の思想です。洗礼を受けるというのは、肉体的に生きている自分が、生まれる前に帰ってしまうことになるのです。この世に生まれる以前に帰ってしまう儀式です。現世でどれだけ泥棒根性があっても、どれだけすけべえ根性があっても、すべて消えてしまうのです。
 キリスト教では頭から水をかけて、なぜ肉体が消えるか説明ができません。ローマ法王でもできないでしょう。
 世界中のキリスト教は、皆間違っています。なぜ水で体を洗うのか。水で体を洗わなくても、神を信じればいいのではないかと思えるのです。神を信じただけではだめです。水で体を洗わなければいけないと、神が言っているのです。なぜそうするかを説明できる牧師さんも神父さんもいないのです。
 皆様の肉体構造が神に帰ってしまわなければいけないのです。魂は肉体をもって生きている状態を言います。魂が神に帰ると共に、肉体が神の前に消えてしまわなかったらいけないのです。そうすることによって、神に帰ることができるのです。
 固有名詞の自分は一切いないということが本当に言えたら、初めて、神の平安が自分のものになるのです。
 皆様は五官の機能によって生まれる前の死なない感覚を与えられていながら、人間としての自分がいるといつでも思っています。口に出して言わなくても、心でそう思っています。この思いが皆様の魂を殺しているのです。肉の思いが自分の霊魂を殺しているのです。霊魂はイエスと同じ状態です。自分がいると考えることが、霊魂を殺しているのです。これをやめて頂きたいのです。
 自分がいるという思いを、私は蛇蝎のように嫌っているのです。いつでも自分はいないと思っているのです。
 自分がいると思うことが間違っているのです。耳が聞こえるのは、生まれる前の感覚と同じです。この世に生まれた自分を、なぜ自分と思わなければならないのでしょうか。霊魂は今、死なない命を経験しているのです。それがありながら、死んでしまうに決まっている固有名詞をなぜ信じなければならないのでしょうか。
 家に家族がいるのは、神の処置によってそうなっているのです。子供がいる、ご主人がいるということが神です。夏は暑い、冬は寒いということが神です。良くても悪くても、与えられた条件が神です。
 あるがままをありてあると言います。あるがままが人の神です。自分はいないのです。市役所に登録してある固有名詞は、世の中の習慣でそう名付けているのであって、神の前には全く通用しないのです。これが分かりますと、この世の人間ではなくなってしまいます。そうすると死なない人になるのです。
 五官の感覚は生まれる前の感覚です。生まれる前の死なない感覚で生活していながら、死んでしまうに決まっている固有名詞をわざわざ担ぎこんで、魂を殺すという愚かなことをしている。こういうことをやめたらどうでしょうか。
 自分という思いを捨てて、とこしえの命、生ける神の子である命だけが、自分の本体であることに気がつけばいいのです。実は女性はこう考えている男性をねらっているのです。こういう男性は滅多にいませんが、そういう男性を求めてやまないのです。女性はこの世で一番上等なものをねらっているのです。
 生まれながらの五官は死ぬはずがない命です。ところがこの世に生まれてからつけられた固有名詞を自分だと思っているので、死ななければならないことになっているのです。
 新約聖書の中にありますが、ナザレのイエスは公生涯では自分がナザレのイエスだと一言も言っていません。自分は人の子だといつも言っていたのです。人の子とは名なしの権兵衛という意味です。
 人の子とは生まれる前の人間をいうのです。イエスはたった一度だけ、自分はナザレのイエスだと言いました。ローマの兵隊が、「ナザレのイエスはいるか」と聞いた時、それは私だと答えたのです。この時以外に、ナザレのイエスだとは一言も言っていないのです。
 イエスは固有名詞を全く問題にしなかったのです。市役所の戸籍台帳に載っている名前を自分だと思っていますと、神の前に立つことはできません。
 皆様は生まれた時は日本人ではなかったのです。両親が日本人として届ける前の人に帰ったらいいのです。
 皆様が現世に生まれてきたのは、皆様の意志ではありません。自分が生まれたと考えなくてもいいのです。親が勝手に生んで、勝手に名前をつけたと思ったらいいのです。名前なんかやめたと思えばいいのです。イエスがナザレのイエスをやめたように、固有名詞をやめたらいいのです。
 自分を一切考えないのです。ただ生きているということが、神の前にいることなのです。生きていることが神ですから、皆様が生きておいでになることが神の前にいることなのです。神の目から見れば、信じても信じなくてもそうなっているのです。
 自分の経験、聖書の勉強が多いか少ないかを、一切考える必要はありません。ただ五官があることが、イエスと同じであることに気がつけばいいのです。イエスの復活が、そのまま皆様の新しい命になっていることを、黙って受け取ればいいのです。
 皆様の心臓が動いていることが、イエスと同じなのです。五官もイエスと全く同じです。
 太陽光線、風の流れは神の手です。神の手が光になったり風になったりするのです。神の手が人に触りに来ているのです。味、香り、色も神の手です。神は人の魂が好きでたまらないのですから、神の方から触りに来るのです。神は人に触りたくて仕方がない。それほど人を愛しているのです。
 「神は、私たちの内に住まわせた霊を、妬むほどに愛している」(ヤコブの手紙4・5)と聖書に書いています。人を愛しているので、鯛、フグ、ヒラメの刺身を食べさせるのです。メロン、スイカ、リンゴ、桃を食べさせるのです。新鮮な空気と水、太陽光線を毎日、毎日与えているのです。これは驚くべき神の愛です。
 おいしい魚、ステーキの肉を食べるのは、神の愛を食べているのです。空気を吸っているのは神の愛を吸っているのです。
 生きていることが神の子です。神の子だから、山の幸、海の幸、川の幸を毎日、毎日与え続けているのです。悪魔の子だったら、与え続けるはずがないのです。神は皆様を、イエスとして扱っているのです。難しく考える必要はないのです。
 ただ一つ難しいのは、生きているのは自分ではない。イエスが自分という状態で生きているということを理解するのです。これさえ分かれば、何でも分かってくるのです。イエスをはっきりつかまえたら、明日この世を去っても構わないのです。イエスが死なないように、魂が死なないことが分かるからです。