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キリストの再臨

2011-06-02 09:16:25 | 日記
自分自身を自分で裏切るのです。そういう度胸がなかったら、とても神を信じることができません。
 日本人は、だいたい、地獄へ行くために生まれてきたのです。このことをよく考えなければならないのです。
 この世に生まれてきた人間は、何にもなりません。この世に生まれてきたと思っていますが、実は前世から続いているのです。
 本当は、前世だけで神の国に行けたのです。エデンの園で、善悪を知る木の実を食べなければ、死ななくても済んだはずです。従って、この世に生まれてくる必要はなかったのです。
 皆様がこの世に生まれてこなければならなくなったということは、仮の世が造られていることを意味しているのです。エデンという前世から追放されて、エデンの東という仮の世に送られてきたのです。
 本当は神は、この世を造るつもりはなかったのです。この世を造っても仕方がないからです。
 神は現在の地球を造る計画を、全然持っていなかったのです。やむを得ず、地球を造ることになったのです。今の人間は、地球で生きているという立場で考えています。これしかできないのです。ユダヤ人がこういう考え方をした。その考えが世界に広ったので、異邦人が全部、その真似をしているのです。
 今の地球はあっても仕方がないのです。神はなぜ六十三億の人間を生かしているのでしょうか。受けがたき人身を受けと道元は言っていますが、道元は日本人であって、考え方が非常に狭いのです。なぜ地球が造られたのかという理由を、全然知らなかったのです。
 神は現在の地球を、本気で造っていません。疫病、地震、洪水、旱魃、台風、噴火、飢饉、津波が発生する地球は、本当の地球ではないのです。神は仕方がなく地球を造ったのです。
 この地球を信じたい人は信じたらいいでしょう。この世でお金儲けをしたり、指導者になっていばっている人は、本当の世界が現われてからひどいめにあうでしょう。
 闇が淵のおもてに座り込んだので、神は地球を造ったのではありません。悪魔だけなら、淵のおもてに勝手に座らせておいたらいいのです。
 ところが、人間がエデンの園で失敗したので、仕方なく地球を造ったのです。この意味で、人間の責任は非常に重大だと言わなければなりません。
 現世はあるように見えますけれど、本当はないのです。日本があって何になるのでしょうか。アメリカがあって何になるのでしょうか。日本の天皇制だけは違います。これは世界歴史の底を流れる秘密の位です。現在は隠れていますが、やがてその意味が世界中に明らかになるでしょう。
 ユダヤ人が歴史の表面に現われてきますと、天皇制も現われてくるのです。天皇ご自身は全然ご存じないのです。やがて天皇陛下ご自身も、びっくりされるでしょう。これは聖書に大関係があるのです。
 今まで、世界は、天皇陛下を全然問題にしていなかったのです。ところが、だんだん天皇陛下を無視できなくなっているのです。人間の歴史が終わりに近づいているからです。
 イエス、パウロは、今から二千年前ですが、このことを知っていたのですが、その後、人類は分からなくなった。終末の時代になって、ようやく再確認されようとしているのです。
 誰でも若い時に、思春期を迎えます。異性を慕うのですが、性とは命のさがを言います。これは二種類しかないのです。男と女はどちらも死んでしまうもので、異性ではなくて同性です。異性とは命が全然違う性を言うのです。命をお互いに経験していながら、全然違った命を言うのです。
 人間は死ぬに決まっている命を経験しています。ところがもう一つ、死なない命があるのです。これが異性です。死なない命を持っている者を慕うことが、本当の思春期です。
 聖書は次のように述べています。
 「また天国は、ある人が旅に出る時、その僕(しもべ)どもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである」(マタイによる福音書21・14)。
 ここでイエスが天国と言っていますが、これは何かです。現世ではないことはもちろんですが、人間の本性があるべき場をいうのです。
 花が咲いていることにたとえますと、花が咲いていることの真髄になるのです。砂糖が甘いということの真髄が天国です。霊でなければ分からないことです。キリスト教では死んでから天国へ行くと言いますが、それとは全然違うのです。
 花が咲いているということがらが、現世にあります。人間が生きているということがらがありますが、これが常識では何のことか分からないのです。
 花が咲いていることの実体が天国です。花が咲いていることの中に、動かすことができない当体があります。これが天国です。人間が生きていることの実体が天国です。
 現在、六十三億の人間が地球にしがみついて生きていますが、何をしているのでしょうか。六十三億の人間が、地球に住んでいることの真髄が天国です。
 地球の主人となるべきある人が、旅に出た。僕どもを呼んで財産を預けたとあります。ある人とは誰かです。
 太陽と地球の関係を簡単に言いますと、太陽系宇宙と言います。火星や金星、土星、木星もありますが、これは地球を引き立てる星というべきものです。これは家族の一員みたいなものです。
 太陽は地球を地球とするためにあるのです。銀河系宇宙の中でも、物体的な惑星は他にありません。地球を物体にするために、火星や金星は地球に準じる物体になっているのです。地球に近い惑星ほど、地球と同じような物理構成になっていますが、これは地球を地球にするための必要な処置なのです。
 地球を完全な固体にするためには、火星や金星が必要です。火星や金星は、地球の兄弟みたいなものです。これが太陽系宇宙の特長です。銀河系宇宙は、太陽系宇宙を造るための設定になっているのです。
 太陽系宇宙は、とても言葉では言えないほど深奥、幽邃なものです。とにかく、地球に花が咲いたり、鳥が飛んだりしています。こういうことは、有りえないことなのです。広大な大宇宙の中で、花が咲く、鳥が飛ぶという惑星は、たった一つ地球しかないのです。
 大宇宙の中で、なぜ地球だけに森羅万象が満載されているのでしょうか。これは一体どういうことでしょうか。
 現在の人間文明のレベルは低いものです。学理学説と大げさに言いますが、地球存在の原点から考えますと、全体のほんの一点しか分かっていないのです。ノーベル賞自体のレベルが低すぎるのです。皆様は、地球がどういうものであるかを、心得なければならないものです。
 キリスト教は人間が死んだら天国へ行けると言います。仏教は極楽へ行けると言います。もし皆様がこの世を去って、極楽へ行けたとしても、一体何をするのでしょうか。こういうことが、仏教では分かりません。どんな哲学でも宗教でも、人間が天国へ行って何をするのか分からないのです。キリスト教も分からないのです。
 ある人が旅に出た。ある人は誰かと言いますと、キリストです。キリストが地球の主人になるべきある人です。
 ある人が本当に地球の王になるためには、一度地球を離れなければならないのです。ずーっと地球にいたらいけない。地球を離れて、将来治めるべき地球がどうなるかということを、十分に見極めてからでなければ、地球の王になる資格はないのです。
 ある人が旅に出たのです。地球の主人公が留守になったのです。そこで地球がどうなったかと言いますと、地面を這い回っているへびが、これは幸いとばかりに、主人に代わって地球を治め始めたのです。ユダヤ人がその手先になっているのです。神の手先になるべきユダヤ人が、悪魔の手先になっている。そこで神は、ユダヤ人に関係のない私たちに、ユダヤ人の間違いを、是正させようとしているのです。
 キリストがもう一度地球に戻るまでの準備を、私たちにやらせようとしているのです。キリストに代わって、地球の番頭をする人がいるのです。神はその役を、私たちにさせようとしているのかもしれないのです。他にその役目を果たす人がいなければ、私たちがすることになるかもしれません。そういう人がどうしてもいるからです。キリストの代理者として、根性が曲がったユダヤ人をたたき直す人がどうしてもいるからです。
 地球はやがてどうなるかと言いますと、現在の物理的な地球はなくなります。現在の地球は、霊理的な地球の雛形です。
 宇宙全体は、天と地と空によって成り立っています。天と地の間に、空があるのです。大空が地球を抱いていて、ミカンの皮のようになっています。
 天は霊です。天が地球存在のあり方を決定するのです。今の学問は、物理世界という地のことしか分かりません。
 空という得体の知れないものがあるのです。これが現代文明です。文明は何をしているのか分からないのです。文明を集約していきますと、未確認飛行物体、UFOになるのです。これはないかというと、あるのです。あるのかというとないのです。見たという人はたくさんいますけれど、どこにどうしてあるか分からないのです。
 本当にあると言いたいければ、マスコミの前に堂々と出て、テレビで正体をはっきり現わしたらいいのに、それをしない。できない理由があるのです。これが人間文明の正体です。文明の正体が未確認状態なのです。
 主人が分かると、未確認状態の正体が分かるのです。空がはっきり分かれば、地も天も分かるのです。空は天でもないし、地でもないのです。地より高いが天よりも低いのです。
 新しい主人公ができるためには、天空地の三つがいるのです。今の地球は空が主人になっています。ノーベル委員会は空の原理に立っているのです。政治、経済の原理、マスコミ、学理学説の原理は、すべて空です。これはすべてUFOの原理です。あることはあるが、正体が分からないのです。これが人間の文明です。
 地球の主人になるべき人は天にいるのです。やがて天から空中に降りてくるのです。これについて、聖書は次のように述べています。
 「すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初に甦り、それから生き残っている私たちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう」(テサロニケ人への第一の手紙4・16、17)。
 現在、悪魔が空中を占領しています。学問、政治、経済、道徳、法律が、今の地球を支配しています。学問、政治、経済の原理は空です。根本原理が説明できない状態で、地球が動いています。悪魔が地球を支配しているからです。
 エペソ人への手紙には、悪魔が空中の権を取っていると書いています(2・1、2)。政治権力、経済の権力、教育の権力、法律の権力を、悪魔が握っていますが、キリストが再臨して、それを全部押さえてしまうのです。そうすると、政治権力、経済の権力、教育の権力、ジャーナリズムの権力等、あらゆる権力がキリストのものになるのです。そうすると、天災はすべてなくなるのです。病気も犯罪も、紛争も戦争も、すべてなくなるのです。
 これが、キリスト再臨の実体です。地球の主人公が帰ってくるのです。そうすると、地球の状態は、すっかり変わってしまうのです。
 人間は本来死ぬべきものではありません。死なないものです。キリストが再臨して、あらゆるものが全部変わってしまい、本来の状態が現われるのです。
 こういうことは、仏教や天理教では分かりません。地球の将来がどうなるか、人間の魂がどうなるか分かりません。聖書を勉強しないと分からないのです。
 まず十字架と復活をしっかり勉強しなければいけないのです。それが分かると、聖霊降臨が分かります。そうすると、キリストの再臨が分かるのです。
 聖霊降臨とかキリストの再臨は、地球の秘密になります。この勉強をする前に、肉体的な人間はいないということを納得しなければならないのです。いきなり、地球の本質とか地球の将来のことを聞いても、分からないのです。地球の将来は、十字架と復活が分かれば、勝手に分かるようにできているのです。
 キリストの復活の命を自分のものにすることができると、キリストの再臨はすぐに分かります。
 まず知って頂かなければならないことは、十字架です。肉体人間はいないということです。これを理屈で述べているのが、般若心経です。般若心経に十字架はありませんが、理屈だけは述べているのです。これを実際に裏打ちしているのが聖書です。
 地球の本質、文明の実体が分からなければ、般若心経は分かりません。ですから仏教の指導者は聖書を勉強しなければならないのです。
 現在の男性は、この世で働くために生きています。女性は天国の秘密を知ろうとしているのです。この世では、神は男性が女性の上に立つことを許していますが、神の国では逆になるのです。女性はハートで神の国を受け入れるのです。
 神の国では女性の直感が上になり、男性の知恵がそれに従うのです。これが千年王国のあり方です。
 霊とは神が地球を造った時の原理です。地球運営の原理です。
 天国というのは、将来の地球を中心とする宇宙構造の全体を言います。これを実現するために、キリストとその教会があります。
 キリストが復活したのは、地球の主人公となるためです。復活したけれど、現在地球にいないのです。これについて聖書は次のように述べています。
 「こう言い終ると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。イエスが上って行かれる時、彼らが天を見つめていると、見よ、白い衣を着たふたりの人が、彼らのそばに立っていて言った、『ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れ天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう』」(使徒行伝1・9〜11)。
 キリスト教ではこれが説明できないのです。イエスが雲の中に入っていったことは、どういうことか。今キリストはどこにいるのか。何のために天に行ったのか。こういうことはキリストの花嫁になる人でないと分からないのです。
 カトリックの人々、プロテスタントの人々は、キリストが天へ行ったことは知っていますが、雲に乗ってどこへ行ったのか、今キリストはどこにいるのか分からないのです。これは預言の分野に属することなのです。
 キリストは五百人の人々が見ている前で、天に上げられたのです。見ていたが、雲に隠れて見えなくなったのです。これが何を意味するのか。今キリストがいる所を、どうして見分けるかです。
 パウロは、キリストは第三の天に上げられたと言っていますが、第三の天はどこにあるかです。皆様が霊を神に渡して聖霊を受けますと、第三の天はすぐに分かるのです。
 霊を渡すと、自分の命も、財産も、将来の希望も、全部神のものになります。そうすると、神の国、天国が見えてくるのです。このためには、現世に生きている自分を、空じてしまわなければいけないのです。
 キリストが雲に遮られて、見えなくなったとありますが、雲とは一体何かです。目に見える現象的な雲は、キリストをつつんだ雲の雛形です。雲は神の権威を意味します。絶対者の権威です。大いなる白い御座の権威です。これが雲です。これは現在の人間でははっきり見ることができません。あるには違いないが、分からないのです。
 やがて雲を裂いてキリストが再臨します。轟をもって下りて来るのです。これについて、聖書は次のように述べています。
 「さて、弟子(でし)たちが一緒に集まった時、イエスに問うて言った、『主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか』。彼らに言われた、『時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない』」(同1・6、7)。
 やがてユダヤ人が、本来のあり方に帰るのです。本当に、アブラハムの子孫になるのです。神がわが前に歩みて全かれとアブラハムに言われたことを、ユダヤ人たちが実行するのです。
 その時に、国がイスラエルに返されるのです。国とは世界全体の政治です。これがユダヤ人に返されるのです。そして、ユダヤ人を中心にした全世界帝国が現われるのです。これがキリスト王国です。
 その時はいつですかと、弟子が聞いているのです。時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのです。この権威が雲です。キリスト自身も、いつどうなるかを言っておられない。父の権威にあることは、御子は分からないのです。
 御子キリストは、今は父の右にいるのです。最高のことは父なる神に委ねられていますが、現在の人間の歴史をどうするかについては、キリストに委ねられているのです。いつそれを実行するかについては、父の権威に属するのです。
 やがてキリストが地球上に再臨して、地球全体を運営するのです。地球の主人はキリストですが、その上に神がいるのです。
 キリストの再臨の時期を決めるのは父なる神ですが、再臨するとキリストが大帝王になるのです。今度くるキリストは、ユダヤ人に殺されたような人とは違います。義の太陽が本当の姿を現わすのです。太陽が人の姿になるのです。
 太陽のご威光と、太陽の知恵が、そのままキリストになって現われてきます。これがキリストの再臨です。このとき初めて、ユダヤ人がユダヤ人らしくなるのです。ユダヤ人がキリストに仕えるのですが、そのユダヤ人に命令する一群の異邦人が現われるのです。その時、キリストは日本の天皇のような状態になりますが、内閣にあたるものが、一群の異邦人です。
 天皇は直接政治をを行いません。内閣がそれを行うのです。千年王国ではキリストは直接政治を支配しません。内閣がそれを行うのです。イギリスやアメリカには天皇がいないので、最高の権威が何かが分からないのです。
 キリストが再臨すると、主という最高の権威が現われるのです。ユダヤ人が世界で最高の国民になるのですが、キリストから直接命令が下るのではありません。ユダヤ人を支配して命令を下すのが、キリストの内閣です。それがキリストの教会です。
 キリストの教会の一員となるためには、ユダヤ人のために祈り、ユダヤ人のために伝道する人でなければだめです。ユダヤ人のことは知りませんと言っている人は、キリストの教会員にはなれないのです。
 神の権威を現象的に言いますと、雲になります。雲の上に神がいますが、権威によって隠されているので、だれが救われるのか分からないのです。これは神の権威の内におかれているのです。神の権威を認めると、だいたいのことが分かってきます。
 雲の上には太陽があります。神は雲の上の太陽のようなものです。これが神の位です。御座です。グレート・ホワイト・スローンです。キリストの再臨は、雲を割ってやってきます。神の権威を認めない人は、キリストの再臨は一切分かりません。神の権威を認めようと思いますと、見えないことが信じられなければいけないのです。見えないことを信じられる人は、霊を神に渡した人です。
 キリストは第三の天にいます。第三の天とは何かと言いますと、霊を渡した人の信仰の状態(霊)です。霊を渡すと信仰の霊が与えられます。
 自分が生きているのは、自分の霊です。自分の命を渡してしまいますと、引替えに、神の霊を与えられます。これを聖霊を受けると言います。
 霊を渡してしまう決心ができない人は、本当の神の霊を崇めることができないのです。本当の神の霊を崇めることができない人は、キリストの再臨が分かりません。ですから、どうしても自分の霊(人生)を、神に渡してしまうことが必要です。これを毎日、毎日しなければいけないのです。



この世で彷徨するユダヤ人

 人間は生物的に見れば、哺乳動物に決まっています。ところが、理性と良心があるというのがおかしいのです。哺乳動物には理性と良心はいらないのです。動物はただ生きているだけですから、死んでから霊魂の審判をする必要はありません。現世に生きているだけですから、理性と良心はいらないのです。
 現在の人間は死んだらしまいだと言っていますけれど、これは哺乳動物の考え方です。人間を哺乳動物として規定すれば、死んだらしまいです。そうすると理性と良心はいらないのです。
 理性と良心があるということはどういうことか。霊魂の永遠性を背景とする場合に限って、理性と良心の意義が成立するのです。ただこの世で生きているだけなら、理性と良心はいらないのです。
 現在の人間の文明は、理性と良心に従って構築されています。現在の人間の文明システム自体が、理性と良心に従っているのです。そうすると、死んだらしまいという理屈は、一切通用しないはずです。
 死んだらしまいという考え方をしていると、現在の人間社会は動物社会になるのです。しかし、人間の社会構造は、動物社会とは全く違います。
 動物社会の原点はあります。例えば現在の政党のあり方が、岩田山の猿の集団と似ているのです。これは人間の集団が、政治的には動物的存在を踏まえていると言えるのです。ところが、文明、文化のあり方は、すべて理性と良心に基づいているのです。そうすると、人間はどう考えても、哺乳動物ではないことになるのです。
 哺乳動物ではないとすれば、一体何かということです。
 哺乳動物であれば、社会構造は必要ではありません。日本人の大半は、死んだらしまいと考えています。理性と良心のことを深く考えません。霊魂のことを考えません。
 しかし、ユダヤ人が死んだらしまいと言うのはおかしいのです。彼らは約束の民です。約束という言葉自体が、未来性を意味します。従って死んだらしまいという考えは、約束という言葉に該当しないことになるのです。そういう考えで、果たして約束の民と言えるのか。理性と良心の本質を弁えなければ、約束の民とは言えないのです。
 ユダヤ人が異邦人を豚だと言うのなら、ユダヤ人自身が、人の子であるという証をしなければならないのです。割礼を受けているということは、人類の中心民族である印です。
 旧約の預言者が、ユダヤ人をぼろくそに言ったように、私たちも今のユダヤ人の言動を、ぼろくそに言わなければならない。彼らに、恥じをかかせなければならない。約束の民でありながら、あまりにもひどすぎるからです。
 ユダヤ人である以上、文学者であっても、科学者であっても、モーセの掟に対して、知らぬ存ぜぬでは通らぬはずです。割礼を受けて、モーセの子孫であることを前提として、生活しているはずです。学者であることよりも、掟の民であることが先行しているはずです。割礼の民であることを基本にしていながら、それを考えようとしないことはおかしいのです。
 かつて、屋根の上のバイオリン弾きという劇が上演され、好評でした。この劇は、ユダヤ民族がこの地球上で、安住の地がないことをテーマにしているのです。あっちへ追われ、こっちに追われて、彷徨しつづけている。ユダヤ人はこの世に住んではいけないことを、神が警告しているのです。ユダヤ人はなぜ流浪を続けなければいけないのかを、考えなければならない。その原因は、イエスを十字架につけたからです。イエスを十字架につけたことがなぜ悪いかを、彼らは考えなければいけないのです。
 ユダヤ人はダビデの詩をどう思っているのでしょうか。彼らは本当にエホバを待ち望んでいるのでしょうか。ユダヤ民族の今までの歴史は、現世の生活だけを追求してきました。本当にエホバを待ち望んでいるのかと言いたいのです。
 ユダヤ人は、旧約聖書の中の都合のよい所だけを読んでいるのです。例えば、ギデオンの三百人で、ミデアンの十五万人の大軍を倒したという記事がありますが、これはどういうことなのか。神の意志をどのように見たらいいのかということです。
 ユダヤ人であるということは、異邦人に対して責任を負わなければならないのです。異邦人を指導しなければならないのです。そうでなければ、なぜ異邦人を豚だというのでしょうか。ユダヤ人たちに赤っ恥をかかせなければならない。そうしなければ、彼らが悪かったと思わないからです。
 聖霊を受けている、御霊を受けているということは、心の霊に割礼を受けているということですから、御霊を受けていながら、聖書が分からないとか、神の証ができないとかを絶対に言えないのです。このことを、よく承知しなければならないのです。