とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 121 【訃報】俳優の渡瀬恒彦(72歳)さんが多臓器不全で逝去...So sad

2017-03-19 18:00:58 | 日記
渡瀬恒彦さんのご冥福をお祈り申し上げます。72歳。AKIRAの1年後輩だったんですね。
このお方、兄さん、そして錦織圭選手は島根県とご縁があります。ここで改めてご紹介します。

【訃報】俳優の渡瀬恒彦(72歳)さんが多臓器不全で逝去...So sad


渡瀬 恒彦(わたせ つねひこ、1944年7月28日 - 2017年3月14日)は、日本の俳優・歌手。本名同じ。島根県能義郡安来町出身。東映マネージメント所属。兄は俳優の渡哲也、長男はTBSディレクターの渡瀬暁彦。

幼少の頃に島根県から兵庫県津名郡淡路町に移り、淡路町立岩屋中学校、三田学園高等学校卒業。早稲田大学法学部除籍(1単位不足だったと「徹子の部屋」出演時の本人談)。在学中は空手道部に籍を置き、段位は弐段。電通PRセンターに勤務していた。
兄の渡哲也は日活の青春スターとして地位を確立していた一方で、渡瀬は芸能界に興味がなく、入る意思はまったくなかった。当時の東映は時代劇から任侠映画・アクション映画へ転換を図っており、渡瀬は企画製作本部長の岡田茂に口説き落とされ、エリートサラリーマン生活にピリオドを打って、1969年(昭和44年)に東映と契約した[7]。渡が芸名で活動しているのに対し、本名で活動し始めたのは、高倉健を意識した東映に「大倉純」という芸名を付けられそうになったが気に入らず、それなら本名の方が良いと申し出たことに由来している。
1970年(昭和45年)、石井輝男監督の映画『殺し屋人別帳』の主役としてデビュー。「仁義なき戦いシリーズ」や『狂った野獣』などのヤクザ映画やアクション映画の出演を経て、1978年(昭和53年)に『赤穂城断絶』、松竹映画『事件』で、ブルーリボン賞・日本アカデミー賞・キネマ旬報等助演男優賞を受賞し演技派として評価を上げ、同年は松竹映画『皇帝のいない八月』でも、狂気を湛えた元エリートの反乱分子を演じている。1979年(昭和54年)には松竹映画『震える舌』『神様のくれた赤ん坊』でキネマ旬報主演男優賞を受賞した。


渡 哲也(わたり てつや、1941年12月28日 - )は、日本の俳優・歌手。元・株式会社石原プロモーション代表取締役社長(2011年退任)。

島根県能義郡安来町(現:安来市)生まれ。父親は日立に勤務、広島県呉市の軍需工場などを転々として、日立の安来工場に勤務していた時、当地出身の渡の母と結婚していた。終戦で父親は日立を退職し実家がある兵庫県津名郡淡路町(現:淡路市)に戻り洋品店を開業、小学校一年生途中から淡路島で育った。出身を淡路島にしているのは、日活に入ったとき石原が神戸市生まれなので、淡路島の方がイメージ的にいい、という判断で決めたからだという。淡路町立岩屋中学校、三田学園高等学校(寮生活)、青山学院大学経済学部卒業。大学在学中は空手道部に在籍し、空手弐段。柔道初段。
大学へ通うため上京。弟の渡瀬恒彦と共に新宿区柏木(現・北新宿)で下宿していたが、在学中に日活が浅丘ルリ子主演100本記念映画の相手役となる新人「ミスターX」を募集していた。弟の渡瀬や所属していた空手部の仲間が内緒で応募したため、本人は激怒するが、就職を希望した日本航空の整備士社員の採用試験で不合格になり、「撮影所に行けば、石原裕次郎に会えるかも知れない」と友人から言われ、日活撮影所を訪問した。その時にスカウトを受けて1964年(昭和39年)に日活へ入社した。(Wikiより)


錦織圭は1989年12月29日、島根県松江市に生まれました。世界に羽ばたく人間になってほしいと外国人でも発音しやすい名前「ケイ」と名付けられました。

父親の錦織清志さんは元・森林土木系の技術者で積極的な性格。母親の錦織恵理さんはピアノ教室の先生をやっていて控えめな性格だそうです。母方の親戚に渡哲也、渡瀬恒彦兄弟がいます。(http://芸能人の父親母親特集.com/post-2018/より)

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