とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 239 有楽町で逢いましょう フランク永井 昭和33年 ビクター

2017-10-23 18:07:08 | 日記
どこかで愛しい人を待っている。当時私は恋に恋していたのでしょう。この唄の雰囲気にあう物語を作って、その主人公になっていました。

有楽町で逢いましょう フランク永井 昭和33年 ビクター


フランク 永井(フランク ながい、1932年3月18日 - 2008年10月27日)は日本のムード歌謡歌手である。本名は、永井 清人(ながい きよと)。独特の低音が特徴であった。

歌手デビュー

幼少時に父を亡くしたが、母が映画館経営をしていたため、不自由なく育つ。幼少時から歌手に強い憧れがあり、昭和26年ごろに東京へ出て就職していた兄を頼り上京。進駐軍のキャンプ地でのトレーラー運転手、アルバイト生活を経て、アメリカ軍のクラブ歌手として月100ドルで契約する。さまざまな「のど自慢大会」に出場し、「のど自慢荒らし」の異名をとったが、1955年(昭和30年)に日本テレビの『素人のど自慢』の年間ベストワンに選ばれたのを機に、ビクターと契約。同年9月に『恋人よ我に帰れ』でデビューした。

ジャズを得意としたがヒットに恵まれず、先輩歌手であるディック・ミネの勧めや、作曲家・吉田正との出会いを期に歌謡曲に転向した。1957年(昭和32年)の有楽町そごう(2000年に閉店)キャンペーンソングであった『有楽町で逢いましょう』が空前のヒットとなり、さらに既に発表していた『東京午前三時』『夜霧の第二国道』も相乗ヒットとなり、一躍トップスターとなる。自ら見出した松尾和子と共に歌った1959年(昭和34年)の『東京ナイト・クラブ』は、デュエットソングの定番として2000年代においても歌い継がれている。

日本レコード大賞受賞・紅白歌合戦26回連続出場

1961年(昭和36年)には1922年(大正11年)の二村定一の流行歌「君恋し」をジャズ風にアレンジしたリバイバルが大ヒット。同年の第3回日本レコード大賞を受賞、人気を不動のものとする。吉田とのコンビでも「霧子のタンゴ」、「妻を恋うる唄」などのヒットに恵まれたが、なかでも1966年(昭和41年)に「大阪ろまん」のB面収録曲として発表された「おまえに」は、6年後の1972年(昭和47年)にはA面として再発売され、さらに5年後の1977年(昭和52年)には、新規に再録音された。2000年代において一般的に聴かれている「おまえに」は後者の録音であることが多い。

また、「君恋し」をロカビリー風およびゴーゴー風のアレンジで再録音したり、1973年(昭和48年)にはイタリアへ飛び、トランペッターのニニ・ロッソと共演、レコーディングを行った。ニニ・ロッソとは前年の「第23回NHK紅白歌合戦」で「君恋し」を歌唱した際に初共演している。

コンサートにおいては、趣向を凝らし、緻密に練り上げられた構成のステージングで知られ、約5年毎に大きなリサイタルを開いたが、そのうちのいくつかは芸術祭で賞を受けたほどの語り草になっている。永井は進駐軍のクラブ歌手をしていた経験から英語に堪能であり、ステージでスタンダード・ナンバーや、「霧子のタンゴ」の英語版なども歌うことがあった。

海外公演もこなし、台湾(ここでの公演で「霧子のタンゴ」英語版を初披露したという)や韓国などでコンサートを行っている。特に1968年の韓国公演は、戦後初めての朝鮮半島における日本の流行歌手の来日公演、と半島で話題を取った。ただし当時は日本語楽曲の披露は反日感情から規制されており、当初洋楽限定でのステージングであったが、観客からの強い要望で「有楽町で逢いましょう」ほか4曲を日本語で披露し、喝采を浴びた(当局は黙認という形を取った)。

NHKで一席を披露したこともあるほどの落語好きとしても知られ、ステージのMCは落語の間を参考にし、日常で話のネタになることは常にメモを取り、それを練り上げ小噺に仕立てて披露した。自宅の電話の保留音はファンだった8代目三笑亭可楽の出囃子にしていた。可楽は高座でも「フランク永井って人があたしを贔屓にしてくれるんですよ」と話しており、十八番の「らくだ」の屑屋の科白に「くず〜うぃ。……低音の魅力だね。こりゃあ」というくすぐりを入れていた。また牧伸二も漫談で「フランク永井は低音の魅力、牧伸二は低能の魅力」というネタを披露した。他に8代目桂文楽とも交流があり、10代目柳家小三治とはゴルフ友達の間柄であった。現在も時折、小三治の口座では噺のマクラでフランクとの交流が語られる。

日本レコード大賞では大賞を1回、歌唱賞を2回、特別賞を3回受賞している。NHK紅白歌合戦の常連出場者としても知られ、1957年(昭和32年)の第8回から1982年(昭和57年)の第33回まで連続26回出場し、現役出場時は島倉千代子と並んで最多出場者の記録を持っていた。昭和50年代以後も「おまえに」、「公園の手品師」、"WOMAN"(山下達郎作詞・作曲)などヒット作や話題作を送り出し、1980年代に入ってからも自身の歌の原点であるジャズ・スタンダードを精力的に唄い始めるなど、歌謡界には比較的珍しい非・演歌系の大御所歌手として存在感を示していた。しかし1983年(昭和58年)の「第34回NHK紅白歌合戦」は落選となり、このことは当時の永井にとって大きなショックだったとも言われる。その後は後述の自殺未遂事件の影響で、紅白歌合戦へのカムバック出演を果たすことはできなかった。(Wikiより)

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