パロディ『石泥集』(短歌・エッセイ・対談集)

百人一首や近現代の名歌を本歌どりしながら、パロディ短歌を披露するのが本来のブログ。最近はエッセイと対談が主になっている。

2016年事件簿23 天皇制の秘密

2016-12-27 14:43:46 | パロディ短歌(2016年)
             天皇制は日本社会の象徴

 2016年を終えるにあたり、天皇の譲位問題をかたずけておかなくてはならない。新聞などでは「生前退位」と報道されることが多いが、退位とともに新天皇に位を譲るわけだから、「譲位」という言葉のほうが、より真実に近い。

 天皇制を論じるには、迂遠なようだが日本の社会構造から話を始めるほうがわかりやすい。日本語には1人称、2人称とともに3人称がある。英語で習った「彼・彼女、彼ら・彼女ら」という言い回しである。しかし、日本語には英語のような意味での厳密な3人称はない。それどころか、1人称の決まり方にすら、他の言葉にはない特徴がある。

 日本語における「私」は「お前のお前」であると喝破したのは、故山本七平氏である。つまり、お前(2人称)から見た「お前」(2人称)が私(1人称)である。互いに鏡を映して互いを規定しているわけ。このごろは「俺は俺だ」という人(例えば近所の迷惑も顧みないゴミ屋敷の持ち主)も多くなってきたが、普通は「お前は迷惑な人だ」と言われたら、「そうか、俺は迷惑な人か」とうなずくものである。

 「俺は俺だ」という人の眼中には、もう「あなた」という2人称はない。2人称の相手を認めなければ、1人称は成り立っていかない。つまり社会的な位置を占めることはできないのである。絶対に迷惑を認めないゴミ屋敷の住人に対し、日本人が極限の違和感をもつのは、彼には生物的な個人はあるにしても、社会的な「私」が感じられないからである。こんな個人主義は要らないし、そもそも成り立たない。

 3人称は日本語にも形式上はある。彼とか彼女とか、言葉としても使う。しかし、よく考えてみると、3人称は単に「あの人」と言い換えて済む場合が多くないだろうか。すなわち、話をしている私とあなたの間では、彼(もしくは彼女)は我々の「仲間」であるか、「無関係」の人か――が常に意識されているはずである。内部の人か外部の人かが意識されていると言っていい。

 だからこそ、前都知事の増添要一氏が、自らの政治資金報告書を「第三者の目で」検証してもらうと言ったとき、世論は「自分で選ぶ弁護士がなんで第三者だ?」と猛反発したのであった。皆が要求したのは、「自分の外の」弁護士――できれば検察官だったのである。

 要するに日本の社会は「私とあなた」そして「外部」で成り立っている。これが悪名高き「ムラ意識」である。丸山真男は「タコつぼ」型組織と呼んだ。ただし、私に言わせると、(霞が関の省庁のように)タコつぼがいくつも並んでいるというだけでは、正確な理解ではない。タコつぼにも大小あり、大きなタコつぼの中に小さなタコつぼが巣食っていたり、タコつぼ同士が底で繋がっていたりと、その姿は千差万別である。

 従ってタコつぼの集合体である日本国は、軟体動物にも似て、どこへ行くのかわからない不気味さがある。日本人の感じている不安は、ここに源があって、解決するには問題をこう設定する必要があるだろう。「タコつぼの中身を明るみに出し、タコつぼ同士の暗黙のつながりを、どのように暴露するか?」「タコつぼ同士の目に見える連携を、どう構築するか?」 すなわち、1人称と2人称の世界である日本国から、タコつぼを駆逐することは数百年間は無理なのである。その前提で、解決策を練ることになる。最も手っ取り早いのは、「外圧」を利用して特定のタコツボを壊すことである。歴代の政権がやってきたことである。

 もっとも大きなタコつぼが天皇制であることは容易にわかるだろう。だからこそ、敗戦にあたって、昭和天皇は「汝(2人称)忠良なる臣民に告ぐ」と勅を出したのであった。日本が巨大なタコつぼ国家なのである。1人称と2人称からのみ成り立つ社会――天皇制が理解できるのは日本人しかいない。外国から口をはさむことはできない。日本人の中でも、あるいは天皇制に反対する人もいるだろう。あなたは共和主義者である。しかし、いくら共和制を叫んでも、この1人称プラス2人称のみの社会を変えなければ、新しい天皇を生むだけに終わってしまう。かつての共産党で、徳田球一が「天皇」と呼ばれたように、無数の天皇を生みだすだけである。共産党でなくとも、色んな芸能の家元とか新興宗教の教主は、今でも実質的に天皇である。

 さて、天皇制がこれだけ日本になじんでいるからこそ、今年8月8日に放送された天皇のお言葉は多大の関心を引き起こした。身内の話で「あなた=わたし」の世界であるから、天皇の言葉に「おかわいそう」「退位は認めるべき」との世論が圧倒的だったのは当たり前である。有識者会議(今井敬座長)の反応は妥当なものであろう。ただ、参考人の中に譲位を認めないとする意見が結構多くて、これは意外であった。「天皇は存在するだけでいい(つまり公務などの能力は問題でない)」とする意見もあった。私は反対である。何故なら、天皇の姿が見えなくなる恐れがあるからで、「神秘のベール」をもって良しとする一派があるようにさえみえる。

 今上陛下は思春期に敗戦を迎えられ、GHQ統治下、いわば人質の形で、アメリカのよこした家庭教師・バイニング夫人から民主主義を叩き込まれた。もちろん、わが国が戦後これだけの発展をしたことは、欧米流の価値観で日本風の曖昧さを一つずつ克服していった国民各層の努力がある。ただ、個人主義のように、どうしても日本の社会には取り込みえないものがあって、その副作用に悩んでいるのが日本の現状であろう。

 8月のお言葉はよく練り上げられた日本語で作られており、わかりやすい言葉を連ねながらも、過不足なく天皇の意思を伝えていた。注目したのは最後に「私の気持ちをお話しいたしました」と述べられたことである。天皇が初めて「私」を表に出した。当たり前、と思うだろうが、実は当たり前ではないのである。

 伝統的天皇観をもつ人は、今上天皇がこのように「私」を持ち出したことに反対している。天皇には「私」はない、あるのは「公」としての天皇だけだ、とする昔の一派が今も存在する。私はこれにも反対する。天皇一家にも私生活があって当然で、それが時々は表に出てもいい。閉ざすことはないのである。その上で、憲法改正が成就し、天皇の地位がはっきりと国家元首に定まることが望ましい(現状でも世界は国家元首として見ている。追認するだけである)。ただし、政治的な権力は付与しない。利用しようとする政治家は居るだろうから。

 天皇にまつわるパロディは作りにくいが…。

今上天皇にすれば思い切った行動だと思われる
●このたびはマイクもとりあへず譲位談世論の動き会議のまにまに
(本歌 このたびは幣もとりあへず手向山紅葉の錦神のまにまに  菅家)
(蛇足)天皇の放送については、宮内庁と官邸の間にスキマ風が吹いていたという。NHKのスクープという形をとって、宮内庁が押し切ったという見方が多いようだが…。実際のところはわからない。「会議」とは有識者会議のこと。

ずいぶん前から話題になっていたようだ
●譲位てふわが名はまだき立ちにけり人しれずこそ思ひそめしか
(本歌 恋すてふわが名はまだき立ちにけり人しれずこそ思ひそめしか  壬生忠見)
(蛇足)宮内庁のはなしによれば、天皇と皇太子、秋篠宮の間では、「人知れず」譲位の話が進んでいたらしい。理由はよくわかる。天皇、皇后はだれにも勤まらないし、考えられないほどの激務である。「譲位てふ」とは「譲位という」の意。元歌の「恋すてふ」は「恋をしているという」の意。そのむかし岩波書店がこれを「恋すちょう」と現代仮名遣いに直して、バッシングを受けたことは記憶にとどめるべき愚行であろう。

昭和は長かったが平成も…
●ももしきや古き昭和をしのぶにもなほあまりある平成なりけり
(本歌 ももしきや古き軒端をしのぶにもなほあまりある昔なりけり  順徳院)
(蛇足)昭和は遠くなったが、考えてみれば、平成も長く続いている。
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