できることを、できる人が、できるかたちで

京都精華大学人文学部・住友剛のブログ。
関西圏に関することを中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

「20年ほど前」と大差ないように見える「部活動」問題談義

2017-07-17 16:22:09 | 受験・学校

「部活で夫不在 教員の妻ら嘆き」(2017年7月17日)

https://news.yahoo.co.jp/pickup/6247243

これは内田良さんが書いた最新の記事のようですが、この記事では、いわゆる「部活未亡人」ということばを取り上げています。スポーツ部活などの指導で熱心で、土日などの休日にあまり家に居ない男性教員(=夫)の問題をとりあげるために、このようなことばから入った感がありますが。

ただ、私がこの「部活未亡人」なることばに最初に接したのは、内海和雄『部活動改革』(不昧堂出版、1998年)という本のなかです。ちょうど、いまからだいたい20年ほど前、文部省(当時)の有識者会議が部活動の活動日数・時間数の制限などを論じていた時期です。また、その頃は学校週5日制の導入などとも関連して、スポーツ部活に関しては、たとえば地域スポーツクラブや外部指導者の導入なども検討・実施されていた頃でもあります。

ということは、いま、あらためて内田さんが「部活未亡人」ということばをつかって、この問題を取り上げて論じていることに全く意味がないとは思わないのですが、でも、構造的には「この約20年間、部活動をめぐる問題状況は、大きく変わってないか、より悪化している」ということになりますよね。

また、実際に外部指導者導入や活動日数・時間数の制限など、昨今スポーツ部活の問題をめぐって提案されている事柄も、私の目には「20年ほど前と大差ない」ように思えてなりません。そのことは、「部活動の社会教育への移行」という提案も同様です。

熱心にこの問題を取り上げて論じていらっしゃるみなさんにはたいへん申し訳ないのですが、私から見てますと・・・。「90年代後半にスポーツ部活動の改革で提案された事柄がなぜ、この約20年間、十分に実施されてこなかったのか?」ということをきっちり検証しておくことのほうが、「20年ほど前に提案されたことをもう一度、掘り起こしてくること」以上に大事な状況になってきているように思います。そこの部分の検証をぜひ、いま、熱心にこの問題を取り上げて論じていらっしゃるみなさんに、やっていただきたいと考えます。

ついでにいいますと、私はこの「約20年間、スポーツ部活動の改革が十分に実施されてこなかった」ことの背景要因のひとつに、「脱・ゆとり」路線の教育改革の問題があるのではないか、と直感的に思っています。

ある意味、20年ほど前のスポーツ部活動に関する諸改革の提案は、たとえば学校週5日制実施など、いわゆる「ゆとり」路線の教育改革の流れとも関連づけながら論じられてきたもの。私はその「ゆとり」路線って、子どもの休息・余暇の権利とか、心身に無理のない成長の権利の保障という観点からすると「まちがっていなかった」と思っていたりもするんですが。また、この頃は学校の学習内容についても「精選」とかいって、週5日の枠内でおさまるようにセーブしていく流れがあったのではなかったかと。

でも、その「ゆとり」路線の教育改革は、2000年代に入ると急速に「学力向上」だの「脱・ゆとり」といった路線に切り替わっていく。あれから全国一斉学力テストも実施されていますし・・・。そういう「脱・ゆとり」路線のなかで、「もっと学力向上を」という取り組みを学校に、教職員に求められる中で、いま、90年代とは異なる形で、「部活動指導の負担」というものがクローズアップされてきたのではありませんか。「もっと学習指導に教職員は手間をかけなければいけないのに、部活の負担が・・・」という話になってきたのではありまえせんか。

もしもいまの教職員の「多忙化」問題を部活動問題と関連づけながら論じていくのであれば、せめて、この約20年間の教育改革の主要な流れを意識しながら論じてほしいな・・・と。脇から私は見ていて思ってしまいます。でないと、いまのままではたとえ20年ほど前の諸提案が実現されて部活動の負担が多少、改善されたとしても、教職員には「さらなる学習指導の負担」がのしかかり、しかもそれを「勤務時間の適正化」の観点から、「短時間に効率よく」という「無理」が求められることになるでしょう。どうせ論じるならそこまで考えて、今後の教職員の「多忙化」問題や部活動問題を論じてほしいものだと、脇から見ていて気になってしかたがありません。




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今日(7月16日)のプリキュアの話です。

2017-07-16 09:32:31 | プリキュア話

つい先ほど、今日のプリキュアおわりました。

いよいよ今日から新しいプリキュア・キュアパルフェ登場ですね。そのためにエンディングの歌と動画が変わりましたし(来週あたりからオープニングも動画だけは変わるかと)、さっそくCMではキュアパルフェのつかうレインボーリボンがおもちゃとして売り出されました。相変わらず、商売上手です(笑)

それから、秋の劇場版映画プリキュアの告知も今回から開始。キュアパルフェの正体は妖精キラリン、人間の姿のときは天才パティシエ・きら星シエルです。そのきら星シエルの姿で、パリでパティシエの修業をしていた頃の秘密を明かします・・・という物語で、劇場版映画をつくるようですね。まあ、こういう細かいしかけもよくできてますねぇ、毎年毎年・・・(笑)

あと、来週からはきら星シエルが、いちか=キュアホイップたちの通う中学校に転校してくるようですね。予告編ではそうなってました。

さて、本編のストーリーですが、今回はキュアパルフェ登場だけでなく、敵のボスともいえる「ノワール」と、キラキラルなるものの正体も明らかになりました。その物語をつくったのが、今回でしばらく消えることになる妖精ピカリオ、つまり敵になっていたジュリオですね。キラリンの双子の弟です。

まず、キラキラルは「スイーツにこめられた思い」で、その思いにはうれしいとか、おいしいといった光かがやく思いだけでなく、苦しい、憎い、腹立たしいといった闇の思いがあること。また、そのスイーツに潜む闇の思いにパワーをあたえて、世界全体を闇の世界にしようとたくらんでいるのが、ノワールであること。そして、スイーツづくりの修業がなかなかすすまないピカリオの苛立ち、劣等感等々に力をあたえてジュリオに変身させ、憎しみのキラキラルに染めてしまったのもノワールであること。こうしたことが最初の方で明らかになります。

一方、ピカリオをジュリオに変え、ノワールの手先にしてしまったのは自分のせいだと、キラリン=きら星シエルは落ち込み、スイーツづくりをあきらめようとします。そんなキラリン=きら星シエルにも、ノワールは接近。ノワールはきら星シエルを闇の球=つまり、シエルの心の闇のなかに閉じ込めてしまいます。その心の闇に、いちか=キュアホイップと、「このままではいけない」と思ったジュリオが飛び込みます。

いちか=キュアホイップとジュリオは、シエルの心の闇のなかにとびこんで、スイーツづくりをあきらめようとしているシエルをなんとか、もう一度、もとの姿にもどそうとします。そしていちか=キュアホイップは、ジュリオにもう一度、ワッフルをつくるように頼みます。
闇の力に染まっているジュリオがつくるワッフルは、灰色にしかなりません。でも、そのジュリオのつくったワッフルをたべたら、シエルは復活します。なぜなら、ジュリオのなかに残っている「もう一度、復活してほしい」という願い、そこから光るキラキラルがあふれていたからです。

シエルが復活したその頃、いちご坂のまちにはビブリーが現れて、巨大人形のなかに入って大暴れしています。ビブリーはジュリオに対する嫉妬の気持ちを、ノワールによって暴れるエネルギーに変えてもらっていたのでした。そのビブリーに、ジェラート・マカロン・ショコラ・カスタードの4人のプリキュアは苦戦しています。

そこへちょうどシエルとジュリオ、キュアホイップが登場。シエルがキラキラルの力をつかって、空中でペガサスのかたちのパフェをつくりはじめます。そのパフェづくりを妨害しようとノワールが闇の大きな矢を放ったとき、ジュリオ=ピカリオがシエルの盾になって、彼女を守ろうとします。

ノワールの大きな矢がささったジュリオ=ピカリオは、シエルに「プリキュアになれ!」と言ったそのあと、ペガサスのかたちのパフェが完成。そのパフェを変身アイテムにつかって、キュアパルフェが登場します。

まあ、そのあとは、キュアパルフェがレインボーリボンをくるくるくる~ってやって、ビブリーを退治するわけですね、はい。

しかしまあ、この「光と闇」の対比といいますか、「一度、あるキャラクターが何か、どうしょうもなく落ち込んだり、悲しんだりするところを潜り抜けて、そこから光を放つ新しいプリキュアがうまれる」という展開といいますか・・・。毎年、そういう展開で夏場あたりから新プリキュアが登場してくるわけですが、このあたりのプリキュアシリーズの描き方って「ほんと、うまいなぁ」って感心します。このあたりは非行少年の立ち直りとか、ひきこもりから脱出するとか、そういう人たちの物語とも何か、似ているかも・・・。

今回、キュアパルフェ(=妖精キラリン、きら星シエル)が登場するときも、一度、自分こそが双子の弟・ピカリオを悪の手先・ジュリオにしてしまったことへの悔い、罪悪感に染まるところから話を始めてます。そういうキラリン(きら星シエル)が、「それでもなお、私は私。私はプリキュアになることをあきらめたくない、あきらめてはいけない」と思い直す。また、そういうキラリンに対して、ピカリオが「やっぱりプリキュアになってくれ~」と願う。そんなところから、新プリキュア・キュアパルフェが登場していますよね。

人の心のなかにある闇の部分、黒い・暗い部分をきっちりと描くからこそ、光の部分や明るい・白い部分も際立って描ける。そういうプリキュアの物語のなかにある対比構造、コントラストというものを、またまた今回も感じてしまいました。

実は「プリキュア」の物語というのは、一見、お子さま向けのキラキラのアニメのように見えて、ほんとうは私たちのもつ「闇の部分」との上手な向き合い方を考えている物語なのかもしれませんね。そこがひとつ、私がず~っとこの「プリキュア」にはまっている理由なのかもしれません。


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これでは大阪市の学校、ますますダメになる(2) 公立高校再編のやりすぎ

2017-07-16 00:07:11 | 受験・学校

大阪市立3高校を1校に統合 西・南・扇町総合、平成34年に開校

(産経WEST 2017年7月15日)

http://www.sankei.com/west/news/170715/wst1707150018-n1.html

この記事にもあるとおり、大阪市、統廃合で公立高校減らすすんですって。

たしか以前、市立高校を府立に移管する話もあったかとおもうんですけど、なんでこうなるかな?

公立高校を減らして少数にする→その狭き入学者数のパイを取り合う競争が激化する(=公立校の学力水準上がる→進学実績もあがるでしょう)→入学できなかった子どもたちは私立高校へ→でも、私立高校にも授業料無償化+所得制限ありだけど進学への助成措置やってるからええやん。

これが、行政サイドの理屈かと。

でもね~。私立高校って、授業料だけじゃないんだよな~家計負担って・・・(まあ、これは公立にもありますが)。

おそらく経済的に苦しい家庭で、なおかつ私立高校には通いづらいという子どもは、広域通信制高校で良心的なところを受け皿にして進学していくんだろうね・・・。

それにしても、ほんと、公費で学校を運営することを嫌がるんですねぇ、いまの大阪市って。先日の教員給与体系を改悪する話にしてもそうですけど・・・。

なんか公立の小中学校・高校の教育水準をより劣悪に、劣悪にして、授業料無償化を含む「公費で賄うラインはこの程度、最低限のもの」としつつ、「これ以上にもっといい教育サービスがほしければ、私学へ行け」と誘導している感が、ありありと出ていますね。

それではたして大阪という地域の活性化を、教育という領域からはたせるのか。考えただけでもわかりますよね。

早いこと、維新の政治に「おわり」を告げなければ・・・。

 


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これでは大阪市の学校、ますますダメになる(1) 教員給与制度の「改悪」

2017-07-15 10:47:49 | 受験・学校

「能力に応じた給与制度に 大阪市教委、30年度から」(産経WEST 2017年7月12日)

http://www.sankei.com/west/news/170712/wst1707120021-n1.html

この記事、一見すると大阪市の公立学校に勤務する教員の初任給があがって「いいじゃない」って思う方もいるかもしれません。また、「能力に応じた給与制度」って「当然じゃん」と思う方もいるかもしれません。

ですが、この新しい給与制度導入の「本質」的なところは、そこにありません。

記事の内容から次のように考えてみると、この新しい給与制度の「本質」が見えてきます。

○37歳以降「別に管理職にはなりたくない」けど、ヒラ教員として職人芸みたいな技を現場で発揮する人については、給与面からどのようにしてモチベーションの維持をするつもりなのか?

○「これって大阪維新の教育施策に忠誠を誓う教員だけが給与面で優遇される制度なのでは?」といわれたら、どう説明するつもりなのか?

○そもそも近隣の他の政令市よりも大阪市の教員の給与水準が低くなったのは、いったいだれのせいなのか?

この3点を今の大阪市のトップ、つまり吉村市長が問われた場合、どのように説明するのでしょうか?

・・・それこそ、こんな教員給与制度を実施したら、「別に管理職なんぞにはなりたかねぇ。自分は定年まで子どものそばで仕事したいんや」「上から首長がどない言おうが、私らは子どものためにできることやりまっせ」っていうような、現場教員の仕事に誇りと熟練の技をもってやってるベテランほど、大阪市から逃げるのではありませんか?

それこそ、この新しい教員給与制度の導入は、かえって大阪市の学校に混乱・困惑をもたらすのではないでしょうか?

いつも思うんですけど、「もうちょっとよく考えて、大阪市の行政、特に市長以下のトップ層、教育施策を実施してくれ」と言いたくなりますね。

この数年、大阪市の学校教育や子ども施策については、「改革すればするほど、もっと状況が悪くなる」という悪循環のパターンばかり繰り返している気がします。


 


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あくまでも「直感的」に思ったことですが。

2017-07-11 22:27:23 | 学問

ここのところ、少なくとも私の目には、といいますか、私の体感あるいは直感的には、といいますか・・・。

そのことばを繰り出すご本人はいたってまじめに、善意でやっているつもりかもしれないけど、でも「従来と同じような(公)教育批判や学校批判のことば」を繰り出せば繰り出すほど、気付いたら今、文科省+政権与党の打ち出そうとする教育改革を「追認」し、さらに(公)教育や学校の状況を悪化させかねないような、そういう「しかけ」が何か、できあがっているように見えてきています。

その「しかけ」の部分をどのように解き明かすのか。

その「しかけ」の部分をどのようなことばにして表現するのか。

そこがかなり、難しいのですが。


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