できることを、できる人が、できるかたちで

京都精華大学人文学部・住友剛のブログ。
関西圏に関することを中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

ダブル選挙の結果をふまえて、次の動き方を

2011-11-28 09:05:59 | ニュース

すでに報道されているとおり、昨日の大阪市長・大阪府知事のダブル選挙は、橋下陣営というか、大阪維新の会サイドの勝利におわりました。

今後は、このブログで前から批判してきた「教育基本条例案」の成立に向けて、大阪府議会での動きが活発になるでしょう。また、いったん否決された大阪市議会でも、なんらかの手直しをして、再び「教育基本条例案」の提出、再審議入りがあるかもしれません。

ほんとうに大事なのは、ここからです。選挙で当選した新市長・新知事が、いったい何をしてくるのかをよく見て、徹底的に「だめなものはだめ」と批判していく姿勢が大事です。

そのときに、今後、大阪のマスメディア、特にテレビが流す情報をうのみにしてはいけません。先週の月曜日、堤未果さんの講演(岩波新書の『ルポ貧困大国アメリカ』などの著者)を聴きに行ったとき、アメリカ社会で教育や福祉、医療などに「市場化」が取り入れられたときのやり方だいって、 彼女はこんなことを語っていました。

1.敵をつくる。2.ワンフレーズをばらまく。3.内容をぼかす。4.議論させない。5.マスコミは一部しか伝えない。

いかがですか? 今回のダブル選挙でも、見事にこんな感じで、テレビを中心とする大阪のマスメディアの動きは、きわめて橋下陣営有利に情報を流していた感じがしませんか?

だとすれば、テレビなどのマスメディアから流れる情報はいったん、疑ってかかるくらいでちょうどいい、ということになるわけですよね。ついでにいうと、このような話は、すでに何人もの「識者」の方が指摘されていますし、また、大阪市の青少年会館条例廃止以来の数々の大阪をとりまく政治的な動きを見ていれば、こういう事態が起こりそうなことは、かなり予想できたのではないのか、とも思います。なにしろ、あのときに大阪市政改革のブレーンだった方が、いまや「大阪維新の会」の顧問になっているわけですから。過去からの連続性において今の事態をちゃんととらえていれば、おのずから、今後を予想できることもあるはずです。

したがって今後は、「物事を過去との連続性の上において、きちんととらえることのできる人」や、「マスメディアから流れる情報をうのみにせず、本や雑誌など別のところから流れる情報も見たうえで、きちんとした検証・批判のできる子ども・若者の育成」こそが、このような社会の流れに歯止めをかける大きな取り組みになるのではないか、と思います。

そして、そのとりくみこそ、これからの大阪の人権教育や子どもの人権に関する運動が引き受けていくべき、大きな課題なのではないでしょうか。本気で今の状況を転換したければ、まずは足元から見つめなおさなければいけません。私たちのこうした課題への取り組みの弱さが、やはり、今の事態を招いたところもあるのではないでしょうか。

ただそれでも、あれだけマスメディアが橋下陣営有利になるような報道を続けていながらも、おおよその数ですが、市長選挙では平松氏に52万票(橋下氏75万票)、府知事選挙では倉田氏に120万票、梅田氏に37万票(松井氏に200万票)入っているわけです。

大阪市の人々、大阪府の人々は、けっして、マスメディアの流す「劇場型選挙」情報に踊らされるだけの人々ばかりではありません。

むしろ、あれだけマスメディアが橋下陣営や大阪維新の会に有利な情報の流し方をしていながらも、これだけの票が反対側の陣営に集まったということ、そのことの重みを考える必要があります。

やっぱり、政治家が選挙にあたってマスメディアをつかっていくら情報を自陣営有利に流しても、その街に暮らす住民の側にきちんとした問題意識があれば、「ごまかされないぞ」という層は一定、でてくるということです。

そういうマスメディアを使って政治家の言うことに簡単に「ごまかされないぞ」という住民を育てることこそ、本来、人権教育として取り組むべきこと、子どもの人権に関する運動が取り組むべきことではないでしょうか。ここをこれから、徹底的に地道に取り組む。そういうことを私はやっていきたいと思います。少なくとも、自分ところの団体だけ「いい活動を」、自分ところの学校だけ「いい実践」をというような動きだけでは、もうダメなんだと思います。

最後にひとつ、今朝の毎日新聞のネット配信記事から。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111128-00000010-mai-pol (<大阪ダブル選>圧勝の維新 2段構えで「国政に足かける」、毎日新聞2011年11月28日ネット配信記事)

この記事のなかに、民主党の大阪府連幹部の話として、次の言葉が出てきます。色を変えて紹介します。

 「大阪で国会議員は維新と手を握らんと選挙を戦えんようになった。民自公3党内で維新との連携を目指す動きが強まるだろう。こうした動きが全国的に広まれば既成政党の枠組みは崩れ、政界再編につながりかねない」

 民主党府連幹部はため息をついた。民主、自民両党の府連は市長選で平松邦夫氏(63)、知事選で倉田薫氏(63)を支援したが、両党国会議員の動きは鈍かった。自らの選挙への影響を懸念した国会議員が慎重姿勢に転じたためで、近畿圏の自民党議員からは早くも「都構想に賛成。大阪だけでなく『関西都』まで広げればいい」との声が出始めている。


こういう政治家たちに、みんな嫌気がさしているんではないですかね? 自分たちにほんとうに「この日本社会、この大阪を、こんな感じで変えたい!」という「目指すべきもの」があるのなら、少なくとも、こんな動き方はできないし、「ため息」ついているばかりではありません。それこそ、こんな動き方は、今回の選挙で平松氏や梅田氏、倉田氏に投票した人々に対して、大変失礼なことだと思います。いい加減、目を覚ましてほしいです。


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ダブル選挙で誰が勝とうが負けようが

2011-11-26 10:50:51 | いま・むかし

大阪市長選・大阪府知事選のダブル選挙の投開票が、いよいよあすに迫っています。特定の候補への支持や投票などを呼びかけるといろいろと問題があるそうなので、そこに関連する話は、今日はあえて書かないようにします。

ですが、今年に入ってからの「君が代」条例問題、「教育基本条例」案の問題、そして今のダブル選挙や大阪都構想の提案など、一連の動きを見ていると、この選挙で誰が勝とうが負けようが、大阪府内も大阪市内も、今まで大阪の人々が地道に積み上げてきたさまざまなものが、もうすでにこの間の動きのなかで「ずたずた」になってしまっているのではないか。そんな気持ちになってしまいます。

とりわけ、この間の一連の動きのなかで、公立学校の教育や自治体行政、公務員や公立学校教職員に対する信頼感を損ねたり、不信感や憎悪などをたきつけ、増幅させてしまったこと。そのことによるマイナスは大きいのではないでしょうか。また、学校現場や自治体行政の現場で働く人々の気持ち、プライドを著しく傷つけてしまったこと。そのことのデメリットは、「改革」を訴えることのメリット以上に大きいのではないでしょうか。

だから私は、誰がこのたびの選挙で勝とうが負けようが、大阪にこういう一連の流れを作った人々のことを、決して忘れません。忘れないというよりも、子どもたちの大好きなアニメ・プリキュアシリーズではありませんが、「もう、絶対に許さない!」と言いたいくらいです。

今日のところはひとまず、ここまででとどめます。

なお、下記のブログもご参考までに、見ていただければ幸いです。

http://shapla-birdy.cocolog-nifty.com/blog/


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「事実を知りたい」という被害者遺族の願いをどう受け止めるか

2011-11-21 10:07:46 | 受験・学校

昨日こちらのブログで書くことができなかったので、あらためて今日、書いておきます。

前にもお伝えしたとおり、11月19日(月)、東京で開催されたNPO法人ジェントルハートプロジェクト主催の「親の知る権利を求めるシンポジウム」で私、基調講演をしてきました。

http://www.gentle-h.net/_src/sc358/6th20sympo.pdf

ちなみに、新聞記事も次のように、この日のシンポジウムの様子が伝えられています。ですから、当日の話はこちらを参考にしていただければ幸いです。

http://mainichi.jp/area/gunma/news/20111120ddlk10040050000c.html (毎日新聞群馬版、2011年11月20日:いじめ自殺:子供失った親がシンポ 桐生・いじめ自殺の父参加--東京 /群馬)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/gunma/20111120/CK2011112002000074.html (東京新聞群馬版、2011年11月20日:事実究明の必要性訴え 自殺や事故で子ども失った遺族のシンポ)

さて、今回の基調講演では、兵庫県川西市の子どもの人権オンブズパーソンで調査相談専門員をしている頃に、公立中学校の部活動中の熱中症死亡事故の原因究明・再発防止策の確立等にかかわる仕事をしたことから、全国学校事故・事件を語る会の取り組みに参加して、今に至る経過を中心にお話しました。

また、その経過のなかで多くの学校事故・事件の被害者遺族の方と出会うなかで、「我が子がなぜ死に至ったのか」という事実経過を知りたいという、ご遺族の方の切実な願いを聴く機会に何度も遭遇しました。だいたい、どのようなケースも共通して、程度の差こそあれ、このような形で被害者遺族の方の状況が推移しています。

それこそ、朝、元気よく「行ってきます」と手を振って登校した、その我が子が、ある日突然学校からの連絡で病院に駆け付けたときには、すでに亡くなっている状態になっていた。その間の経過を知ることなしには、親として、この事実をどう受け止めていいのかわからない。しかも、あわただしくお通夜・葬儀など一連の弔いごとを行っているうちに、学校は授業を再開し、平常の様子をとりもどしていくなかで、自分たちへの説明や連絡がどんどん脇においやられていく。そして、遺族側から「事実を知りたい」と学校に働きかければ、当初はいろんなことを語ってくれた関係者も口を閉ざすようになってきます。

そこで遺族側として、やむなく情報公開請求をかければ、事故に関する文書は出せないと言われたり、一番知りたい部分が真っ黒にぬられた文書が出てきたり、あるいは、書いてあることがどうも当初聞かされていた話と食い違うとか、ほかの子どもや教員などから聞いている話とちがうといようなケースも出てくる。それを「おかしい」といって抗議をしても、なかなか改善されない。それどころか、ますます文書が出てこなかったり、話ができなくなってくる。一方、遺族側から周囲の子どもなどに話を聴こうと動き始めても、なかなか話が聴けなくなってくる。それどころか、事実経過を知りたいと願っての遺族側の動きに対して、さまざまな誹謗中傷が地域社会の間でかけめぐるようになる。本来であればもっといろんないたわりやねぎらいがあってしかるべき学校事故・事件の被害者遺族が、我が子を失った悲しみに加えて、二重三重の被害を受けることになるわけです。

そこで、遺族側としてはやむなく、たとえば民事訴訟、あるいは指導していた教員の過失認定などをもとめて刑事訴訟の提起へとふみきり、法廷で学校側からの事実に関する説明を聴きたいということを考えるわけです。ですが、法廷でのやりとりのプロセスでは、まるで亡くなった我が子に問題があったかのような説明が学校側から伝えられたり、あるいは、保護者の子育てに著しく問題があったかのような主張が学校側からなされたりする。そこでさらに、被害者遺族は傷ついて、苦しんでいくわけですね。でも、それでも法廷でのやりとりのなかでしか、事実経過について説明される場がないならば、そこに臨まざるをえない。また、裁判に訴えてでることにはお金がかかるわけですから、ある程度、経済的な事情が許さないとできない。そうなると、ほんとうは事実経過を詳しく知りたくても、やむなく「泣き寝入り」をする被害者遺族も出てくるのではないでしょうか。

私としては、こうした学校事故・事件の被害者遺族の置かれている状況は、教育学や法学の関係者だけでなく、たとえば心理学や医学、社会福祉学、行政学、社会学、スポーツ学、そして宗教や哲学・思想系の方など(弔いに関することも入りますので)、あるいは理工系の人まで(施設・設備の問題に絡む事故防止などには、理工系の観点も必要)、さまざまな学問領域の関係者が、領域横断的にネットワークをつくって、当事者たる遺族のみなさんとともに、きちんと議論をつみかさね、検討を行っていくべき課題だと考えています。少なくとも、こうした学校事故・事件の被害者遺族の方々が行っているさまざまな活動の場に、こうしたさまざまな学問領域の関係者が常時、出入りして、当事者の声に耳を傾ける必要があるのではないかと思っています。

各種の調査研究協力者会議や審議会などに出入りする人々を見れば、学校や地方教育行政、文部科学省などのサポーター、アドバイザーのように動く研究者は、それ相応にいることがわかります。でも、それと同じくらい、学校事故・事件の問題に関しては、被害者遺族の側に寄り添っていくような研究者が今、求められているのではないでしょうか。そのことをこのごろ、私はよく感じています。

なお、今回のシンポジウムに出て、関東で全外教(全国在日外国人教育研究協議会)の活動に取り組んでいる教職員のみなさんが、学校での「いじめ」自殺の問題について、積極的に被害者遺族の方への支援に取り組んでいることを知りました。学校での「いじめ」の背景に、たとえば在日外国人の方への偏見・差別の問題が絡んでいるというケースが、実際にいくつか生じてきているからとのことです。このような教職員のみなさんが、今後、各地でどんどん増えていくことを願っています。

と同時に、子どもの人権や人権教育に関心を寄せる研究者や他の教職員の研究団体のみなさん、子どもの人権関連の市民団体のみなさんは、この学校事故・事件の被害者遺族の問題について、どのように考えているのでしょうか。どのように動こうとしているのでしょうか。特に「いじめ」や「差別」のない学校づくりということを考えているのであれば、まさに「いじめ」で我が子を亡くした遺族側からの訴えに対して、なんらかの形で全人教や大人教として、あるいはひとりひとりの研究者としてそれを受け止め、動いていく必要があると思うのですが。


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「ダメなものはダメ」とはっきりと。

2011-11-18 08:25:20 | ニュース

http://osaka1117.exblog.jp/

先ほどツイッターで見ていたら、このようなブログができていることを知りました。

大阪維新の会が出している「教育基本条例案」に対して、反対の意思表明をする教育学研究者やいわゆる「文化人」などのつくっているブログのようです。

作成日が昨日なので、今後、いろんな記事が追加されるでしょうし、また、賛同者も次々に現れてくるのではないでしょうか。

やはり、こういう形で、「ダメなものはダメ!」とはっきりと意思表示をすることが大事です。その意味で、この意見を表明されたグループの趣旨に賛同します。

と同時に、自分達の暮らしを悪い方向に向かわせようとする政治や社会の動きに対して、「ノー」という意思表示をしようとする意欲や、その力を育てるものこそ、本来は大阪の人権教育が目指してきたことではないのでしょうか。大阪の府政や市政がここに至るまで事態が来てしまった背景には、自分たちの取り組んできた人権教育のとりくみの弱さ、認識の甘さなど、反省すべきことも多々あるのではないかと思います。

近々大阪府知事選・大阪市長選がありますが、その選挙が過ぎたとしても、この条例案の問題は引き続き残りますし、この条例案を生み出す社会の土壌が何か急に変わるわけがありません。そこからきっちりと、「ダメなものはダメ!」と変えていく地道な営みがいま、求められているように思います。

ひとまず、このブログのことをお知らせしたうえで、あらためて自分の意見を述べておきます。


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あした「親の知る権利を求めるシンポジウム」に出ます。

2011-11-18 06:33:56 | 受験・学校

今日はひとまず、お知らせだけ。あした、東京で行われる「親の知る権利を求めるシンポジウム」(NPO法人ジェントルハート主催)に出ます。詳しいことは下記を見てください。今から大急ぎで講演レジュメをつくらなければいけないのですが・・・・。

http://www.gentle-h.net/_src/sc358/6th20sympo.pdf

この数年、私が全国学校事故・事件を語る会の活動などを通じて感じていること、考えていることなどを中心にお話することになるかと思います。また、このブログで何度かコメントした文科省の子どもの自殺事案発生時の対応に関する通知などについても、当然、被害者・遺族側への支援という観点から、いろんな形でコメントをすることになるかと思います。

なにしろ、学校での事件・事故が発生した際、その多くのケースにおいて、その被害を受けた子どもの保護者に対して、適切に状況の説明などが行われていないこと。また、学校での諸課題に起因する子どもの自殺や、学校で起きた子どもの死亡事故の場合、適切な事実の解明、原因の検討と再発防止策の確立が行われていないということ。さらに、事故・事件発生後の学校への支援は、たとえば危機対応チームの派遣や周囲の子どもへの「心のケア」等々、なんらかの形で行われるようになっているのに、被害者・遺族側へのサポートが不十分であること。そして、被害者・遺族の側が「事実を知りたい」と望んで学校や教育行政側に接触し始めると、とたんに情報が伝わらなくなったり、場合によれば事実隠しや、学校・教育側に都合のいいように解釈・修正された話しか出てこなくなる。まだ「出てくればいいようなもの」で、多くの場合は何も知らされないままになり、それを知ろうと思うと被害者・遺族の側が訴訟等の法的な対応に出ると、ますますガードが固くなったり、自分たちに都合のいい主張を学校・教育行政側が繰り返すようになる・・・・。

およそ、私が見ている学校事故・事件のケースは、このような流れで動きます。そこへさらに、事実を知らせてほしいと願う被害者・遺族側への動きに対して、地域社会の人々や学校の他の保護者などから、「余計なことをするな」というような声があがったり、誹謗中傷などが行われるようなケースすらあります。そのなかで、被害者・遺族の方は沈黙を余儀なくされたり、何があったのか十分に知らされないまま、心身に苦痛を感じて過ごしておられるケースも多々あるようです。

このような学校事故・事件の被害者・遺族の抱えている諸課題に対して、今後、どのような支援策をつくっていく必要があるのか。おそらく事件・事故発生後の被害者・遺族への心理学的・医学的なケアや、生活支援に関する社会福祉学的なケアに加えて、訴訟などでの責任追及や受けた被害に対する補償の問題など法学的な支援も必要でしょう。あるいは、亡くなった子どもなどの葬儀やその後の供養等々などを考えると、宗教的な面からのケアも必要でしょう。そして、いちばん肝心なことは、こうしたケア・支援の大前提として、「いったいこの事故・事件はどういう経過で生じたのか?」「なぜわが子は死に至ったのか?」について、遺族側の求める情報が適切な形で得られるよう、事実経過の把握と原因究明の作業が適切に行われることが必要不可欠でしょう。その仕事には当然、学校での教育活動、あるいは学校生活のなかで起きた出来事ということで、教育学や体育学などが積極的にその任務を負うべきものが多々あるのではないかと思っています。まさに、学校事故・事件の被害者・遺族への対応という課題は、総合人間学というのか、「人文学的な課題」として「学際的に」検討しなければならないことが多々ある、と私などは思うわけです。

というような次第で、あしたはだいたい、こんな話をレジュメにまとめて、話をしてこようと思っています。


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要は、そういうことか。

2011-11-12 10:24:55 | 国際・政治

昨日から大急ぎで新書本2冊、上山信一『大阪維新』(角川SSC新書)、橋下徹・堺屋太一『体制維新ー大阪都』(文春新書)を読みました。詳しい内容を2冊を読んでほしいので、あまりここでは書きません。

ただ、私の印象では、上山氏の本に書いてあることを大阪府政改革に適用したら、橋下氏・堺屋氏の本の内容になる、ということ。あるいは、上山氏の本に書いてある構想を、橋下氏は大阪府知事として実現しようと試みてきたのか、ということ。そんな風に読みました。

まぁ、結論からいえば、「要は、これ、大阪を実験場にして実績を積み、将来の国政改革に打って出ようという発想なのだ」ということですね。なにしろ上山氏の本、6つある章のうちの最初の3つが、今の日本社会の行き詰まりや日本の国政レベルの課題が山積な状況の説明に費やされていますから。だから、国政レベルの諸課題、日本社会の行き詰まりを、大阪市政・大阪府政の改革のような地域レベルでの改革でまずはいろいろ試して、その成果を国政に反映して・・・・という論理構成になっています。

しかし、たとえば自治体の土地などの「ストック活用が再生の鍵」と上山氏の本ではいいますし、それと似たような話を大阪市政改革のときも「創造都市戦略」なるもので確か、数年前、言っていたような気がします。でもこれって、使い方次第では、あらためて大規模な都市再開発をするということで、大手のデベロッパーなどには新たな利益誘導をもたらすものかもしれませんよね。あるいは、既存の建物・施設の有効活用という発想なら、「だったらあの一連の同和施策見直しで生じた遊休施設、有効活用する構想だしてくださいよ」「あの各地区で雨ざらし状態になっている施設、どうすれば有効活用できるのか、具体的なプランをだしてみなさいよ」と言いたくなってしまいます。

あるいは、橋下氏の本では、今の大阪市を特別行政区に再編すれば、市内にある公立学校の小規模校の統廃合がしやすくなるといいます。でも、私の知る限り、橋下氏が「規模が大きすぎる」という今の大阪市でも、市内中心部にあるいくつかの公立学校はすでに統廃合され、なかには跡地が有効活用されているものもあるはずです。

大阪に府立大学と市立大学の2つがあるのは「二重行政でムダ」とかいう話も変な話。それこそ、たとえば両者間で学部や学科の再編成などを行い、重複する分野を解消することだってできるだろうし、似たような学部・学科が「ふたつあることのメリット」を活かす道だってあるはずです。どうしてそっちの構想は提案しないのでしょうか? また、これは図書館やホールなどの公共施設についても同じです。府と市で「ふたつあることのメリット」を活かす道もあるはずなのですが、なぜそれは考えないのでしょうか?

要するに、2つの本で提案されていることのいくつかは、別に「都構想」なるものをぶち上げて、あえて行政システムの改革をしなくとも、地道に関係者間の調整などをすすめていけばできることが多い、ということ。逆にそれを行政システムの改革を入り口にしてやろうとすることのほうが、時間的にも経費的にもロスが多いのではないか、と思われるわけです。

あるいは、類似の機能をもった公共施設が府・市の両方にある、「ふたつあることのメリットを活かす」というのは、まさに「ストックの活用」ということでもあるわけですが、そういう風には考えられない。そこには、華々しい彼らの主張の裏側に、ホンネとしての行政のスリム化、コスト・カットという動機が見え隠れしています。それによる行政の住民サービスの低下等々については、どう考えているんでしょうかね?

こんな感じで、私は読めば読むほど、2冊とも、「これでだいじょうぶなのか?」と思うことだらけでした。

にもかかわらず、それでもあえてこれを、彼らは「政治家としての決断」という形でやろうという。その理由は、ここで「改革に成功した」「改革に取り組んだ」という「実績」と「経験」を積んで、「次は国政へ進出」ということを狙っているのではないか、という風にも思えてなりません。

そう考えると、彼らが「維新」という言葉にこだわるのも、わからなくはありません。自分たちを幕末の志士になぞらえ、志士たちが雄藩の藩政改革の経験を手掛かりにして、やがては国レベルの改革をやったように、いずれは自分も・・・・という夢を描いているのでしょうね。だからこそ、自分たちは夢、すなわち今後の方向性、ビジョンを示すだけで、そのビジョンや方向性を具体化するのは行政の仕事だ、とかいうのでしょうね。あるいは、彼らの「維新」のために大阪府や大阪市が余計な仕事をすることになったとしても、それは夢の実現のためには許されると思っているのでしょうか。

でも、ここでよく考えてほしいのですが、上山氏や橋下氏が今、いろんな理屈をつくってぶっこわそうとしている大阪市役所は、それこそ数年前まで上山氏が改革提案を行い、それを当時の関市長以下の行政サイドが受け入れて、「実績」をつくってきたものですよね。だとしたら、今後もこんな感じで、自分たちが「実績」を積み上げてきたものでも、自分たちの都合ですぐにぶちこわす・・・・という話になるのではないでしょうか。

また、大阪に都制が実施されたとしても、彼らは将来的に関西州など、道州制を目指すという案も出します。とすれば、今後数年がかりで大阪都ができあがったとしても、そのまた何年か先にはそれをぶちこわすという話になるでしょう。だったら最初から国政レベルで議論をして、道州制を導入したほうが早いのではないでしょうか。

彼らの議論に一貫して見られないのは、「つぶされる側」「こわされる側」から自らの夢を見る、という発想ではないでしょうか。その点は、職員基本条例や教育基本条例、「君が代」条例に関する橋下氏の本の内容からも伺い知ることができます。そこには、職務命令に対してノーと言わざるをえない側の発想や、その職務命令の内容がほんとうに妥当なものなのかどうかを問う姿勢が見られません。もっとも、そういう橋下氏の発想を、最高裁の一連の「君が代」関連訴訟の判決が後押ししている点も、この橋下氏の本からうかがい知ることができましたが。


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『釜ヶ崎のススメ』のなかから

2011-11-06 07:58:30 | いま・むかし

いよいよ大阪市長選・大阪府知事選が迫ってきて、大阪の地方政界の動きもあわただしくなってきました。特に大阪市長選、昨日の新聞などによると、共産党推薦の立候補予定者が出馬辞退とか。これで現職・平松市長と橋下前大阪府知事の対決という構図で、大阪市長選挙が動くことが明確になりました。

それにしても、常に地方選挙で独自候補を擁立してくる共産党ですら、大阪市長選では、維新の会以外の他政党の推す平松市長への協力姿勢を見せている。そのくらい、維新の会への警戒感は強いわけですよね。また、ツイッターなどを見ていると、相当、橋下前知事や維新の会、さらにはそのブレーンである学者への批判も出てきている。これだけ反発・批判・非難を受けているのに、まだ大阪市長選に出るんですかね、橋下前知事は? 何か「やけっぱち」というのか、「引っ込みがつかなくなっている」というのか・・・・。

さて、今日はそういう話題と関係があるようでないような話をひとつ、書いておきます。最近読んだ『釜ヶ崎のススメ』という本で、印象に残った一節です。先に文字色を変えて引用しておきます。改行も少し、ブログにあうように変更しています。

人を大切にするとは、忍耐強くあいてをすること。

人を大切にするとは、思いやりをもって接すること。

人を大切にするとは、ねたまず、うぬぼれず、思い上がらず、めざわりなことをせず、自分の利を求めず、いらだたず、人の意地悪を根にもたず、人を不正に抑圧して喜ばず、共に真実を喜ぶこと。

人を大切にするとは、すべてを包み込み、なにごとも信頼してあゆみを起こし、すべて確かなことに心を向け どんなことにもめげずに立ち続けることです。

人を大切にすることは、けっして途絶えることはありません。 (1コリント13-4-8a)

(原口剛・稲田七海・白波瀬達也・平川隆啓編著『釜ヶ崎のススメ』洛北出版、2011年、p259)

このことばは、『釜ヶ崎のススメ』のなかにある本田哲郎さん(カトリック司祭)の「ボランティア(善意)への戒め」という文章の最後に出てくる言葉。最後に「1コリント13-4-8a」と記されているところから見て、おそらく聖書のなかに出てくる言葉ではないかと思います。

私はクリスチャンではないですし(身近には何人かいますが)、今後もキリスト教の信者になるかどうかわかりません。ですが、この本田さんが紹介している言葉、とても心に響きます。と同時に、とても重いです。

ただ、今の大阪市長選・大阪府知事選をめぐる情勢や、大阪維新の会の「教育基本条例案」をめぐるさまざまな動きを見ていると、「ほんとうに人が人を大事にするとはどういうことなのか?」という根本的なところから話をしなければいけないのではないか、と思うようなことにしばしば出くわします。

それこそ私などは、あの「教育基本条例案」が、ほんとうに子どもを大事に育てようとしている条例のようには、まったく思えない。あの条例案が、その子どもを大事に育てる場としての学校と、そこで働く教職員たちを大事にしようとしているとは、ちっとも感じられない。そして、そういうものを平気で出してくる地域政党や首長(候補)が、今後もほんとうに子どもを大事にしてくれる施策を実施するとは、どう考えても思えないのです。なにしろ、「子どもが笑う大阪」を看板にして当選して大阪府知事になった人が、あのような条例案をつくる地域政党を作ったうえで、いまや、任期途中で辞職して大阪市長選に出るわけですからね。

でも、そういう人や、そういう地域政党を相変わらず根強く支持している層もある。きっとそこから転換しないことには、あんな地域政党・首長(候補)を生み出す土壌はずっと大阪に残り続ける。その層の人たちに対してどんな働きかけが大事なのか・・・・。

そんなことを考えたときに、この本田さんが紹介している言葉が、とても重く、私の心に響いてきたのです。この言葉の意味するところを深く深く掘り下げながら、これからも動き続けようと思います。


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いわゆる「佐教組事件」のこと。

2011-11-01 07:54:09 | いま・むかし

もう一つの日記帳ブログには書きましたが、日曜日から2泊3日の予定で佐賀市まで来ています。今日の夕方には自宅に戻る予定です。

詳しいことはこのブログ・日記帳ブログには書きませんが、今回は1957年2月に起きた佐賀県の教職員組合(佐教組)の「3・3・4闘争」に関する資料収集や、当時の教員へのインタビューなど、調査のために仲間の研究者とともに来ています。

ちなみにこの「3・3・4」というのは、「3割・3割・4割」のこと。佐教組にかかわる現場教員たちが、学校の教育活動に支障がでないように配慮しつつ、交代で休暇をとって、佐賀県庁や県教委に対して「措置要求」をしようというのが、この闘争の趣旨です。以下、私が今、知っていることの範囲で、説明をしておきます。

この当時、佐賀県は財政再建のために、数年間にわたって教員の昇給停止等を行うとともに、高齢の教員や共稼ぎ家庭の女性教員などに対して退職勧奨(教員整理、要はリストラ)を行っていました。そのような状況下で、さらに259人の教員の整理を行われる見通しがわかったことに対して、佐教組としての抗議の形が、この「3・3・4闘争」でした。

なにしろ、1957年度には約7千人の子どもが増える見通しの下での教員整理案です。また、教組としての対県教委交渉、抗議集会などの開催、保護者(PTA)や地域住民への説明等、あらゆる方法をつくして整理案の見直しなどを求めても、このような状況が変わらない。そのような状況下でのやむをえない抗議活動として、このような休暇闘争が組まれたのでした。

ところが、この休暇闘争の指導者層に対して、県教委側は1957年の4月、新しい年度に入ってから、一斉に処分を実施しました。また、4月末には警察が強制捜査を実施し、地方公務員法違反(ストのあおり行為)を理由として、佐教組幹部の逮捕も行われました。そして、その後長年にわたって、刑事訴訟及び行政訴訟を通じて、この休暇闘争の在り方や教員への処分をめぐって、行政側と教組側とが争うことになったわけです。そして、この警察の介入などの背景には、当時の政権与党・自民党側の意図があったのではないかと言われています。

石川達三の小説『人間の壁(上・中・下)』は、今は岩波現代文庫で読むことができますが、この小説は、この佐教組事件前後の状況を舞台にして、主人公の女性小学校教員が教育の仕事に目覚め、教組の運動にも積極的に取り組むようになっていく、その過程を描いた長編小説です。また、石川達三はこの佐教組事件の関係者にかなり精力的に取材を行ったようで、事件にまつわるエピソードのいくつかは、小説のなかにフィクションをまじえながら反映されているようです。

この1950年代半ばから60年代に入るまでの間、たとえば公選制教育委員会の廃止、任命制教育委員会の発足、教員の勤務評定の実施、佐教組事件などが相次いだこの時期は、日本の教育の転換点として、いま、あらためて注目されてしかるべき時期ではないかと思います。また、この時期に何が起きたのかを知ることで、いま、「教育基本条例案」や維新の会の動きなど、大阪で起きている出来事を見る目も変わってくるのではないかと思います。

なお、小説『人間の壁』については、下記のページでも詳しい紹介があります。

http://www2u.biglobe.ne.jp/~BIJIN-8/fsyohyo/kabe_nin.html

また、佐教組事件については、ウィキペディアの下記のページにも、詳しい説明があります。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E6%95%99%E7%B5%84%E4%BA%8B%E4%BB%B6

両方とも、あわせて参考にしていただければ幸いです。


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