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京都精華大学人文学部・住友剛のブログ。
関西圏に関することを中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

調査方法の異なる2つの結果の比較には「慎重さ・緻密さ」が必要

2016-10-16 16:40:35 | 受験・学校

http://bylines.news.yahoo.co.jp/ryouchida/20161016-00063307/

不登校「先生が原因」 認知されず ―学校調査と本人調査のギャップから考える

(2016年10月16日、ヤフーニュース配信記事)

この記事なのですが、「学校に行かない・行けない」事情についての理解が、学校(教員)側と当事者側とでズレることは、私も経験上「ありうること」として認識しています。

その点の指摘に限って言えば、私も「そのとおりだな」と理解をします。

ただ、この記事のように、そのズレを具体的な調査結果をもとにして、データ的に見ていく場合に、そしてそれを公の場で発表して議論する場合には、「もうちょっと、慎重かつ緻密な検討をしたほうがよかったのでは?」とも思ったりもします。

というのも、この記事で使われている2つの調査結果は、「単純に比較していいような調査結果なんだろうか?」というところから、私などは疑問を抱いてしまったからです。

なにしろ当事者たちからの回答として参考にしているデータは、ある時点で学校に行かない・行けない事情のあった人たちに、数年後「今からさかのぼってみると、あのとき・・・??」という聴き方をして、しかも複数回答「あり」で得たデータですよね。

とすれば「事後的に」その当事者が、当時の状況のなかからある現象に注目して、それを意味づけして「こうだ」と言っているデータだ、ということもできます。

そう考えると、「行かない・行けない」その時点では「学校(教員)の問題だ」とは思ってなかったけど、「後から振り返ると、やっぱりあの時の学校(教員)の問題って大きい」「後から思えば、あのとき学校(教員)がこんな風にしてくれたら・・・」という理解をしている人が、当初からそう思っていた人と混在している可能性があります。

他方で、学校(教員)側の調査は、ある年度の時点で、学校に行かない・行けない子どもたちを学校(教員)側から見ていて「どう認識したか?」というデータです。

もちろんこの時点で学校(教員)側と当事者側との認識のズレはある程度起きているとも思うのですが、しかし、この学校(教員)側データには「後からの解釈」が混在する可能性は少ないでしょう。

ほんとうに緻密に数字を検討して両者の認識のズレ幅を明らかにしていくならば、このあたりの両者の結果の「前提」にあるものの検討って大事になってくると思うんですが・・・。

他にも記事からわかる範囲で言えることで、なおかつ2つの調査結果の数値比較にあたって気になることがあるんですが、そこはまた別の機会に書きます。

<追記>

ずっとこのところ気になっているんですが・・・。

なんかいろんな意味で「危うい」んですよね、彼がヤフーニュースなどで数字を使ってものを言う時って・・・。

その数字がつくられるプロセス(つまり調査の目的・方法)の課題とか、その数字が持っている性質とか、そしてその数字に対する多様な意味・解釈の余地とか、そういったものが全部、彼のしたい議論の枠組みに即して取捨選択されているようで・・・。


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