一枚の葉

私の好きな画伯・小倉遊亀さんの言葉です。

「一枚の葉が手に入れば宇宙全体が手に入る」

あと一日

2016-12-30 16:24:14 | 雑記


        どうやらチビからうつったらしく、
        私がインフルエンザA型にかかってしまいました。

        予防接種をしていたので高熱は避けられたのですが
        (医師の診断)
        激しい頭痛、咳、喉の痛み、悪寒、鼻水とたたかって
        います。

        処方されたタミフルをのみ、臥せりながら今年一年
        を考えてみたりします。

        今年も残すところ、あと一日。

        落葉樹はすっかり葉を落とし、すっからかんの裸木に。

        しかしその下には春を待つエネルギーを蓄えている
        のです。

        毎年毎年くりかえされる自然界の営み。

        私もあんなに潔(いさぎよ)く生きたいと思いながら、
        いつも願望のみに終わってしまいます。 

        せめて今年のしめくくりとして川柳のわらいを。
        (新聞の「万能川柳」欄から)

         
        「ノーベルに勝る先約有るディラン」
        「ブログ用写真いいから早う喰え」
        「コンビニが隣にできる幸不幸」
        「要介護介護している要介護」
        「金次郎歩きスマホのパイオニア」

        みなさん優秀作と選ばれた人ばかりです。


        佳いお年を!! 
 

ところ変われば

2016-12-24 10:32:50 | 


        今日はクリスマス・イヴ。

        わが家はそれどころではないのだが、
        クリスマスにふさわしい話題を。

        「フランダースの犬」の物語は今の季節に最終章を
        迎え、クリスマスに終わる。

        子どもたちが幼稚園か小学低学年の頃、TVアニメ
        を見て、親である私も涙をさそわれたものだ。

        貧しい祖父と二人で暮らすネロは、同郷のルーベンス
        にあこがれ、画家への道を夢みていた。
        しかし、アロアと遊ぶことを禁じられ、おじいさんは
        亡くなり、放火の疑いをかけられて仕事も失い、
        住んでいた小屋を追い出され、すべての望みを託した
        絵のコンクールにも落選。
        
        ついにはルーベンスの絵の前で、愛犬のパトラッシュ
        と共に力尽きる。
        ネロの最期のことばは
        「パトラッシュ、疲れたろう。僕も疲れたんだ……。
         なんだかとても眠いんだ……パトラッシュ……」
        というものだった。

        そして、パトラッシュが寄り添うと天使たちが舞い
        降り、ネロと愛犬の魂を天国へ誘(いざな)う。

        このシーンは今でも思い出すと涙が出る。


        原作は英国の作家ウィーダで1872年に書いたもの。

      
        ところが、所変われば品変わる。
        米国ではこの悲劇がハッピーエンドに変わるのだとか。

        日本では「他人の悲しみに共感する能力」や「感動的
        な自己犠牲」が尊ばれ、悲劇的な結末が好まれる。

        一方、「厳しい状況から抜けだして幸運をつかむことや
        自己実現の大切さ」を重んじる米国では、
        ネロが裕福な家庭に引きとられ、幸せに暮らすという
        映画になったそうだ。

        果たして……
        悲劇かハッピーエンドか、
        子ども向け云々をいう前に、文学作品としての価値は
        どうか。
        意見が分かれるところである。

        ※ 家にあった絵本より


        

        
        

あと8日

2016-12-23 15:52:55 | 雑記


      暮れも押し迫ってあと8日。

      そんなところわが家のチビがインフルエンザに
      なってしまいました。

      とうとう終業式もクリスマス会も欠席。

      娘が乗船中なので私が病院に連れていく羽目に。

      こんなとき郵便局も銀行も、スーパーも混んでいます。
      もちろん病院も満員でした。

      インフルエンザ検査の結果、陽性に。
      タミフルという薬をもらい、帰宅。

      発熱から3日目ですが39度超えの熱が続いています。

      たまたま私は予防接種を受けていますが、それでも
      うつるのでしょうか。

      大掃除もなにもかも一時、頓挫。
      机のまわりには暮れ、正月に読もうと思った本が
      うず高く積まれています。

      その前に、散らかった資料やメモ類を何とかしなくちゃ。
      それもこれも休止状態。

      その上、昨日今日の季節はずれの暑さ!
      コートや上着を脱ぎ、薬をのませ、氷枕を用意し、合間
      をみて買い物に走りまわっています。


      ※ とっ散らかった机周辺
      
      

新聞が新聞紙に替わるとき

2016-12-17 18:31:09 | 雑記


      散らかり放題の机周りを何とかしなくちゃ。
      自分の部屋のミニキッチンくらい片付けなくちゃ、
      等々、思ってばかりいて少しも手につかないせいか、
      昔の大掃除を思い出した。

      暮れも押し迫らないうち、お天気のいい日に家族総出
      で畳をあげ、手拭いをかぶった母親の総指揮の下、
      大掃除をしたものだ。

      子供は重たい畳を持ち上げるのは無理で、
      あっちへ行ってもこっちへ行っても邪魔、邪魔といわれ、
      せいぜい下に敷いてあった新聞紙を取るくらいだった。

      それが、古新聞のサザエさんなんか読んでいると面白くて
      また大人にどやされる。

      少し大きくなると社会面の事件なんか拾い読みして
      またまた止まらなくなる。

      「そんなに面白いならあんたに全部やるから、後で読みな」
      なんて云われても、古新聞はそこで読まなきゃ、面白みは
      半減するのだ。

      どうして畳の下の古新聞はあんなに面白かったのだろう。

      畳の部屋などほとんどない現在の住宅事情では望むべくも
      ないことだが。
      

      この間、向田邦子さんのエッセイを読んでいたら、
      弁当箱を新聞紙にくるんで学校に持っていったことが
      書いてあった。
      たいしたおかずが入っていないときは、新聞紙で隠す
      ようにして食べた……とか。

      そういえば昭和の半ばまでは、お芋や野菜など、
      ちょっとしたものはお店でも新聞紙にくるんで持たせ
      てくれた。
      
      私は今でも、靴が雨でぬれたときは新聞紙を丸めて
      入れておきたくなる。

      
      では、新聞はいつから反古(ほご)扱いになるのか。

      「新聞」はあくまでも最新のニュースが掲載されているもの。
      それが翌日になると「新聞紙(し)」に。
      やがてそれは「新聞紙(かみ)」になり下がる。

      いまどき、新聞紙(かみ)の需要は減ってしまったが。

      

      
      

6年ぶり  辞書

2016-12-16 18:02:52 | 雑記



        どうしても見つからなかった辞書が6年ぶりに
        出てきた。
          英和事典 
          和英事典
          西和辞典
          露和辞典
          仏和辞典

        記憶はないのだが、
        引っ越しのとき誤って捨てたのだろうか。
        何回となく必死で探したが見つからなかった。

        その間、どうしていたのか。

        心優しい友人が調べてくれたり、
        最近はネットでちゃちゃっと検索することが
        多かった。
   
        便利のような、物足りないような……。

        元来アナログ人間の私は、活字で調べないと
        信頼できないところがあった。
        ネットで安易に解ってしまうことに、いわば
        罪悪感を感じるのである。
        
        だいたい、ネットって誰が書くの?
        それって、信頼していいものなの?
        という思いがいまだに抜けないのだ。

        辞書は、
        紐でくくって家族のアルバムと一緒に二階の
        一室にダンボールに入ったままになっていた。

        思わず手にとってパラパラとめくってみた。

        ところが、である。

        あの小さい字が老眼鏡をかけても見にくいのだ。
        この6年間に私の視力もそれだけ落ちていた、
        ということ。

        思わぬ伏兵にたじろいだ。

        家人にもらしたら、
        いまは電子辞書の時代よ。
        気分を変えて、電子辞書を買ったら?
        と云われてしまった。

        だけど、そんなはしたないこと、
        よからぬ男が糟糠の妻を捨てて、二号さんに
        走るようで、とてもしのびない。

        6年ぶりに見(まみ)えた辞書を、いったんは
        本箱に収めたが、今後どうすべきか、
        ちらっと眺めては思案にふけっている。        
        

        

少年野球

2016-12-11 10:05:00 | 雑記


       今朝、二度寝して思いっきり寝坊した。
       それで8時ごろ散歩にいったら、山の中にあるグランド
       で少年野球大会があるらしく、
       関係者がぞくぞくと集まっていた。
   
       驚いたのは、
       関係者(大人の男性)は互いに帽子をとってきびきびと
       挨拶し、そうした大人と(他のチームの)少年たちも
       きちんと挨拶する姿だった。

       今日はかなり多くのチームが集まっているらしい。
       ユニフォームにチーム名が書いてあるので、
       一見同じように見えても、違うことが分かる。

       まだ開始前なのでそれぞれ走ったりしてウォーミングアップ
       するのだが、チーム同士がすれ違うとき、これまたきちんと
       「おはようございます」と帽子を取るしぐさ。

       遅れて駆けつける他のチームのメンバーにもきちんと声を
       かけ、もちろん、散歩中の地元の人にも
       「おはようございます」と挨拶する。

       機械的に(単細胞的に)とも云えなくないが、
       日頃だらだらしている私は、そのきびきびした態度に
       目をみはらされた。

       私は昔から体育系ノリが大嫌いだった。
       元気ならなんでもできる、といった雰囲気がイヤで、
       極力避けてきた。       
       
       なのに、何だろう、この動揺は!
       たまたま出会った少年たちに(外観だけで)心を動かされ
       ているのだろうか。

       今日一日、動揺はおさまりそうにない。
       
       そうだ、窓拭きでもしよう。
       

       
       
       
       

       

サンタ到来

2016-12-10 08:13:39 | 雑記

      毎年、師走になるとやってくるピアノ調律師のおじさん。
       今年もやってきました。
      「いやあ早いですね。1年がたつの」といって。

      来るなり、ピアノの鍵盤の模様のついたエプロンを掛けて
      仕事に取りかかる。
      ちなみにこのエプロンは認定を受けた調律師しか掛けられ
      ないそうだ。

      おじさんは手を動かしながら
      (同時に全身で音を聴いている様子)
      口も動かす。

      こちらは所在ないので、
      その間、PCに向かったり本を読みたいのだが、
      おじさんは放してくれない。
      
      ピアノに何の知識もない私は仕方なく世間話をする。

      Q 調律って、誰がやっても同じなのですか。
      A 違います。
        たとえば同じ曲でも、指揮者や弾く人によって違うでしょう。
      Q なるほど、それは分かります。
        クラシックでも、指揮者やピアニストによって、こんなに
        異なるものかと……。
        でも、調律となると、ある一定の基準があるのではないですか。
      A もちろん、決められた音の高さ、みたいなものはあります。

      Q 音の高さ、といっても幅があるということ?
      A 音の高さは変えられないのですが、幅というより、
        人の耳に心地よい音と、数字的に正しい音は、必ずしも一致
        しないんですよ。
      Q な~るほど。
        正しい音で、なおかつ、
        人に心地よい音をつくっていくというのが使命なのですね。
      A 調律師は誰でも、計算上、正しい音がつくれるように訓練を
        受けています。
        でも、人の耳には数字的にぴったり合っても、少しずらした
        方が心地よいというような感覚があるんです。
        もちろん許される範囲の微妙なズレなのですが。
        
      それからおじさんは、
      「なかには、ぴったり合った音が好き、という人がいます。
       とくにクラシックをやった人は、小さい時からきっちり合った
       音で育っているので、合っていないと気持ち悪いようなんです」
      といった話をされたが、
      私はその分野ではないので、なるほど、なるほどと聞くだけ。

      ピアノといっても奥が深いのですねえ、という感想でした。

      おじさんは小1時間、手を休めずに仕事をして
      忙しいサンタクロースのごとく、次の仕事場に去っていきました。

      

 
        




        
      

      

盗難警報器

2016-12-03 18:05:41 | 雑記



       昨日の早朝のこと、
       車で出かけようと、いつものようにキーホルダー
       をワンタッチでドア解除しようとしたら、
       どうやっても開かない。
       あれ? と思い、角度を変えて何回やっても駄目。

       どうやっても開かないので、しびれをきらして、
       キーそのもので手動で開けたら、
       いきなりビービービー!!
       盗難警報器が鳴りだして、ドアを閉めたり開け
       たり……
      
       あせりまくった。

       その間、一時はやむのだが、ちょっとしてまた鳴り
       ひびく。

       早朝だし、隣近所にも迷惑。

       家人を起こすのもしのびなく、営業所もまだ開かない
       時間である。

       そんなことを数回繰り返して、ともかくもエンジンを
       掛けたら音が止まったが、このまま走っていいのか
       どうか。

       一方ではこれが、本物の盗難だったら、乗り逃げされ
       ちゃうのではないかと思ったり……

       エンジンを止めるとまたもやビービービーと、
       けたたましい音。

       出発時刻はとうに過ぎている。
       やけっぱちになり、ともあれスタートした。

       運転していても、途中でまた警報器が鳴りだしたらと
       気が気ではない。

       午前中、用事を済ませ、
       帰りにディーラーに寄ったら笑われました。

       原因はキーホルダーの電池切れ。
   
       ビービー鳴ったら、キーホルダーをスタートボタンに
       押し付けるようにしてエンジンを掛けると
       鳴りやむそうです。

       そんなこと知らなかった。

       いったん警報器が鳴りだすと1分間鳴り続けるのだとか。

       いやはや。
       あのときの慌てふためきを思い出すと、いまでもドキドキ
       します。

       
       ※ 車体に乗っているのが問題のキーホルダー

       

       

         


       
       

ジャネーの法則

2016-12-02 19:27:17 | 雑記


       師走の声を聞いたと思ったらもう3日である。
       もはや加速度がつくかのように日が過ぎる。

       年齢とともに時間がたつのが早い、ということは
       よく聞くこと。

       そういえば子どもの頃の1年は長かったなあ。

       たとえば5歳児の1年は50分の1だけど、
       50歳の1年は50分の1。       
       つまり10倍の速さというわけ。

       これをジャネーの法則というのだそうです。

       大人になると時間がたつのが早く感じるのは
       3つの理由があって、以下の通り。
  
       ① ジャネーの法則
        フランスの哲学者ジャネーによる法則
        簡単にいえば、
        生涯のある時期における心理的長さは年齢の
        逆数に比例する。
        (年齢に反比例する)

        つまり、50歳の人間にとっての10年間は
        5歳の人間にとっての1年間にあたり、
        5歳の人間の1日が50歳の人間の10日に
        当たる。
        (ああ、なんて怖ろしいこと!!)
      

       ② 新鮮味がなくなるから

         デジャヴュってやつですね。
         子どもの頃は見るもの聞くもの、新しいことばかり。
         
         人は未経験のものをやっているときは、それが強い
         印象となって意識にのこり、時間も長く感じる。
         それが慣れてしまうと時間の長さも気にならなくなり、
         早く感じるようになる。

         結果的に、子どもの頃は新しいことが多いので時間が
         長く感じ、大人になれば新鮮味のあるものに接する
         機会が少なくなり、時間があっという間に過ぎ去って
         しまう。

       ③ 同じことを繰り返すことが多くなるから

         大人になると新鮮味がなくなるだけでなく、同じこと
         を繰り返す頻度も多くなります。
         仕事に行って帰っての繰り返しなど、典型的です。

         毎日新しいことに触れるなんて、めったにありません。

         以上のようなことからさらに時間の経過が早くなる。
         つまり、マンネリってやつですね。


        こうなると、大人になるってことはなんとつまらない
        ことなのか!!

        さらにさらに、
        大人は年末を迎えるまえにやることがいっぱい。

        大掃除は省く!としてもカーテンの洗濯、ガラス戸
        網戸の掃除等々、こまごまとしたことがいっぱい。
 
        ああ、いま思い出した。
        今年年末の締め切りの原稿。
        10月から放ってあるのです。

        今年も残すところ4週間。
        地味にコツコツ仕上げるしかありません。


        ※ 先日、会合があって新橋まで行ってきました。
          写真は駅前広場のSL
          サンタが乗っていました。