一枚の葉

私の好きな画伯・小倉遊亀さんの言葉です。

「一枚の葉が手に入れば宇宙全体が手に入る」

備前焼とおひなさま

2012-02-28 21:50:08 | 雑記



    3・11を前にささやかなひな飾りを出して
    写真におさめた。
    それに、華やかさと重みを添えるのは備前焼
    のコーヒーカップである。
 
    これは昨年秋、取材でお世話になった(岡山県)
    備前市役所の谷本さんから送られてきたものだ。
    なんでも実のお姉さんのところが窯元で、
    そこでつくられたものだとか。    
  
    実は、備前焼は今回、取材の対象ではなかった。
    ところが谷本さんの案内で陶芸美術館(赤穂線・
    伊部駅前)をみているうちに、備前焼の奥深さ
    に取り込まれていた。

    備前焼は千年の歴史があり、釉薬や絵付けなど
    一切なく、窯に入れて焼くだけ。
    素朴で深みのある独特の赤茶けた色はそれだった
    のか。
    
    茶器に利用されたのはもちろん、大きな甕(かめ)
    は歴代の戦国武士が戦で籠城するときに使われた。
    水や酒、みそ、ほかの食糧などを入れる必需品で、
    それがあるとないとでは戦の勝敗にもかかわって
    くるだろう。
    
    それに目をつけたのが豊臣秀吉である。
    備中高松城水攻めの際にはわざわざ寄って、伊部
    (いんべ)の里陣地に関する制札を出している。
    (伊部村陣執禁止)
    秀吉は備前焼の保護策を出して、つまり独占しよう
    としたのだ。

    驚いたことに、秀吉は自分の棺桶にもこの大甕を
    使っている。
    谷本さんの話だと、人一倍権力意識のつよい秀吉
    のこと、その大甕に永遠に滅びない生命力(魔力?)
    といったものを願ったのではないか、ということ
    だった。
    (ちょっと表現は違うかもしれないけど)

    その谷本さん、ここに文化人あり!という人なのです。
    こちらの意図を的確にくみとって、
    (これはもう1つの才能にちかい)
    むしろ、それ以上の資料を提供してくれる。
    後のフォローもしっかりして、かゆいところに手が
    とどくほどのものだった。
    この気配り、確かな対応はなかなかできるものではな
    い。
    さぞかし職場でも有能なスタッフであろうと想像でき
    た。
    
    さらに、コーヒーカップには、
    「備前焼は有名な陶芸作家のつくる高価なものもある
     が、これは生活雑器として、せいぜい使って下さい」
    といったメッセージが添えられていた。
    
    この「生活雑器」という表現に、地元でずっと備前焼
    に親しんできた人の謙虚さと誇りがこめられている。
    これで備前焼との距離が一気に狭まったことは確か
    である。
    
  
    
    
    
 
       
      

雪国便り

2012-02-23 21:49:47 | 雑記



     この頃にぴったりのことば「三寒四温」。
     例年なら、いい表現だな、昔の人はうまいこと
     いうもんだ、としみじみ思うのだが、
     今年は何となく気が重くて、口に出すことさえ
     ためらってしまう。

     それというのも2月は短いから、あっという間に
     終わって、すぐ3.11がくるからだ。
     またTVや新聞などで、あの津波が村落を飲み込む
     映像を流すのだろうか。
     
     怖い。
     つらい。
     切ない。
     
     そんな折、南会津の只見に避難している一家から
     便りが着いた。
     略して「雪国便り」
     へたな注釈をつけるより、要所を抜粋してご紹介
     しよう。

      「今年は雪が少ないね」と地元の人が話してい
       たら、もっさもっさと降り出しました。
       お陰さまで子供たちも元気で学校に通い、
       家族で”雪国”を楽しんでいます。

        泣いてくらすも一生
        笑ってくらすも一生
       
      「これいいね」と息子がことわざ辞典から
       見つけてきました。
       寒さは厳しいけれど、心はぽっかぽか。
       子供たちが笑顔でいられる只見町で、もう
       しばらくお世話になることにしました。
       いつも心にかけてくださりありがとうござ
       います。
 
     表には直筆で
       「なかなか状況はよくならないのですが、
       今しかできなことをしようと思い、あち
       こち勉強に出かけています」
     とコメントがつけてあった。

            

分岐点

2012-02-19 21:17:40 | 雑記



      前回のブログは歯切れのわるいものになった。
      いいたいのはもう1人の従姉Kちゃんのことで、
      喉まで出かかっているのに書くべきか、やめ
      るか、迷っていたからだ。

      実は書き出した今でもためらいがないわけで
      はない。だが、ここで逃げて(一種の逃避で
      あることには変わりない)しまったら、
      一生触れず終いのような気がして、プライバ
      シーに障らない程度で勘弁してもらおうと思う。

      従姉のKちゃんは私より2歳上。
      当時私は大学四年を卒業を前に、将来を思い
      悩んでいた。
      親の希望するように郷里に帰って教師になるか、
      東京に残るか。

      叔父が当時、教育界のある要職にあって、母と
      福島の叔父のところを訪ねたのである。
      母は、私が教師になりたがらないことを知って、
      何とか叔父に説得してもらおうとしたのだ。

      私にはそれが分かっていたが、気づかないふり
      をして、物見遊山のつもりで出かけたのである。

      そのとき福島のミッション系の大学の助手か
      何かをしていたKちゃんもいて、私たちのために
      お茶を出したり、夜になればお風呂や布団の
      世話など、叔母のかわりに甲斐甲斐しく働いて
      いた。
      一緒に世間話にもはいって、どこといって問題
      なく屈託なさそうに見えた。

      ところがKちゃんは、(後で聞くことだが)
      すでに修道院に入ることを決めていたのだ。
      そのために両親との確執も最大級のものと
      なり、その渦中にあったのである。
      そんなことをおくびにも出さず、翌朝もKちゃ
      んは朝食のみそ汁を作っていた。
      
      その後しばらくして、Kちゃんは修道尼になる
      べく九州に渡ったことを聞いた。
      私は親の希望など無視して、田舎に帰ることも
      教職に就くことも拒否して、都会に残った。
      たしかにあの時が分岐点だった。

      時折、映画の「尼僧物語」にKちゃんを結びつ
      けて思い出したりしたが、それもすぐ忘れた。
      戒律のきびしい修道院の生活は、わがままな
      私には地球と宇宙ほどの距離があった。
      私は自分の生活でいっぱいだった。

      何年前だったか、Kちゃんが母校の大学の責任
      のある立場(学長)になって、福島に帰って
      きていることを風のたよりに聞いた。

      それもこれもずっと頭の奥に押しやって忘れて
      いた。
      私はいつも自分のことで精一杯だった。
      それがなぜか、福島駅に降り立ったとたん、
      鮮明に記憶がよみがえったのである。
      そして、待ち合わせの時間までちょっと間が
      あることを知ると、すぐさまタクシー乗り場
      に急いだ。

      Kちゃんがいるという大学は市街地にあって、
      静かにたたずんでいた。
      卑俗で、いまだ俗にまみれたままの私は
      その様を確認すると、再び駅にもどった。

      やっぱり旅はとんでもないことを思い出させ
      てくれる。
      
      
      写真は「智恵子抄」から
        (安達太良山のほんとうの空)

       東京には空がないといふ
       ………………
       阿多多羅山の山の上に
       毎日出ている青い空が
       智恵子のほんとうの空だといふ
     

      

      
      
      
      

      

15の青さ

2012-02-17 22:00:08 | 雑記


     福島まで乗った東北新幹線”やまびこ”は頭部?
     が舌ヒラメ(魚)を思わすようなE2系だった。
     新幹線が日本全土を縦断すると聞くと、狭い日本
     そんなに急いでどこに行く、とカビの生えたよう
     なギャグで毒づいていたくせに、いまさら在来線
     に乗る気はしない。勝手なものだ。

     東北新幹線の楽しみは、何といっても車窓から見
     る福島盆地のパノラマである。毎回、息をのんで
     見入ってしまう。
     そして(全く個人的な感想だが)車窓から見る風
     景でぴか一とひそかに思っているのだ。

     ところが今回は写真のように真っ白で、山は雪か
     雲でぼやけて期待した展望はのぞめなかった。
     (雪景色はそれなりに風情があるものだが)

     実をいうと、福島駅に降り立ったのは数えるほど
     しかない。
     福島県人でありながら??と思われるかもしれな
     いが、私の出生地の南相馬市は太平洋に面してい
     て、県庁のある福島市とは山を隔てているため、
     直接結ぶ交通手段がなかった。
     (現在では簡単に車で山越えするが)

     私の頭の中では、いったん東京(または仙台)に
     出て、それから福島に向かった方が近いような
     気がいまだにしている。
     (昔インプットされた記憶はなかなか消えない)

     その数少ない福島の記憶ーー
     中学を卒業した春休み、高校教師をしている数歳
     年上の従姉を訪ねた。多分、大人の女性の生活を
     のぞいてみたかったのだろう。

     従姉はちょうどやっていた音楽会に連れていって
     くれて、食事もご馳走してくれた。
     下宿に帰った後、もちろん私はバタンキューだ
     った(お腹もいっぱいだし、気持ちも満足して
     いた)。
     ところが布団にねている私を横に、彼女は英語
     のテキストを広げて勉強をはじめたのである。

     勤勉なのか、寝る前の儀式みたいなものなのか
     ……。
     私は職業を持って(大人になって)からも克己
     心を失わない従姉にびっくりした。
     そのころは大人になれば勉強はしなくていいも
     のだと思っていたのだ(笑)。
     そんな青かったころのことを車中で、突然
     思い出してしまった。
     (旅はとんでもないことを思い出させてくれる)

     従姉は数年前に立派に高校教師という職場を定
     年退職し、現在は趣味にボランティアにまた
     新たな挑戦をしつづけている。
    
     
     
     

3.11一周年を前に

2012-02-13 20:59:44 | 雑記
 

     節分、立春が過ぎたと思ったらあっという間に
     2月も半ばちかく、もともと短月だから終わる
     のも早く、そしたら3.11のあの日がくる。

     震災11ヵ月の2月11日、小中学校の同級生が
     福島に集まった。
     といっても未だに避難生活を強いられている人
     も少なくなく(遠く四国や北海道にまで)、
     実際に来れたのは20人ちょっとである。

     このうち半数以上は生家はもちろん、身内が
     犠牲になっていて、最も多いのは兄弟や甥姪
     など7人を亡くし、遠い親戚も入れると十数名
     を喪ったという人もいた。

     みんな、津波の怖ろしさを語った。家を流され
     たくさんの犠牲者を出した人は、小さい頃から
     浜辺で遊び、海を庭のようにして育った人たち
     だ。(実際、彼ら彼女たちは泳ぐのもうまい)

     お茶を入れ、酒を飲んでまた語った。
     その合間にゆくすえ来し方の話もある。
  
     実をいうと(私は)中学卒業以来50数年ぶり
     という人が半分以上いた。
     いわれてみれば面影のある人、ない人、喋って
     いるうちに、はたと昔と結びつく人もいる。

     それでも(集まれた人は)みな元気だった。
     聞けば伴侶を亡くした人、両親を見送った後、
     妻(または夫)を現在介護中の人もいる。
     人生、悲しいことつらいことばかりではなかっ
     たと思うけど、悲喜こもごも、それはシワや
     シミに確かに刻みこまれているのだった。

     当日、福島駅前は正午で1.4度。
     30分ほど車で上った高湯温泉街は雪がうず
     高く積もり、行った時も帰りも吹雪いていた。

     (写真は宿となった花月ハイランドホテルの
      前庭からのぞむ阿武隈連峰の朝日。
      目の前にぶら下がっているのはつらら。
      同級生のK君撮影)
     
     
      

確定申告

2012-02-09 20:59:00 | 雑記



      毎日ろくでもないことを考え、駄文(このブロ
      グもそのひとつ)を連ねている間にまたやって
      きた、確定申告の季節が。
      ことに、自分にとってあまり歓迎しないものに
      限って、またやってきた~と思いがちだ。

      鎌倉市でやる初めての申告なので、あらかじめ
      税務署に聞きにいった。
      広報では確定申告は2月16日~となっているので、
      自分では余裕をもっていったつもり。
      ところが、もういつでも(?)出来ますよという。

      そういわれると焦る。
      それこそ1日でも早い方がすいているような気が
      して、翌週、万障繰り合わせて出かけた。
      教えてもらった必要書類を揃えて。

      いってびっくり。
      みな同じ思いなのか仮設プレハブの建物には
      長蛇の列ができている。
      まず、ロープがくねくねと張られているところ
      に並び、順番がちかくなったら申告別(年金、
      土地譲渡、株売買など)に分けられ、そこでも
      列、列、列……。

      私が回された所では、担当者(税務署員)は2人
      で、つまり窓口が2つということ。
      ちょうど前の2組の書類がむずかしいのか、
      1時間かかっても終わらない。

      多分、回転を早めるためであろう、スタッフは
      立ち仕事で、もちろん依頼するこちらも立ったま
      ま書類を書いたり、電卓を使ったりしなければ
      ならない。
      
      やっと番が回ってきて、私の場合は30分位で
      終わった。
      (隣の男性は「株」だったが15分ほどで済んだ
       ようだ)
      やれやれと思ったら、今度はパソコンで書類をつ
      くるために(やり方はスタッフが教えてくれる)
      またも並ぶ、並ぶ、並ぶ。
      これは病院にいって総合受け付けにはじまり、
      外科または内科の受け付け、薬、会計で並ぶのと
      同じだと思った。

      結局、10時にいって帰ってきたのが3時過ぎ。
      何たる時間のロス、いつも時間の無駄使いばかり
      しているくせに、こんな時はほんとうに損した
      気分になる。  
      以前に住んでいたところでは朝、番号札だけもら
      って、午後に再びいったことがあるから、1回で
      済んだだけマシなのかもしれないと思いつつ。

      それにしても思うのは被災地のこと。
      親戚の人が嘆いていたが、役所の説明会、何かと
      いうと書類を出してくれといわれ、同じような
      書類を何回も何回も書いているのに、一向に復興
      しないのよね~と。

      私の知っている人はほとんどが虚業(いわゆる
      ホワイトカラー)ではなく、実業(体を資本に働く
      という意味)だから、小難しい役所ことばの書類
      をみただけで頭が痛くなるといっていた。
      明日への不安、心配だけでなく、そういったスト
      レスもあるのだろう。

      年に1回の確定申告でぶつくさいっていたらバチが
      あたる、そう思って家路についた。

      (写真は帰途にみた蝋梅)
      
   
      


厄除け

2012-02-05 20:14:16 | 名所



      先週末、やっと鎌倉八幡宮にお参りすることができた。
      これまでも何度か近くまでいっているのだが、混んでい
      たり時間がなかったりで、いつもスルーしていたのだ。
      (これじゃ、ご利益も望めないわね)

      ちょうどその日は厄除け大祭が行われていて、善男善女
      でいっぱい!
      舞殿(まいでん)では雅楽の演奏つきで、厄除けのお祓
      いがおこなわれ、
      櫓(やぐら)の下では護摩をたいて神主が大声で祈祷し
      ていた。
      
      石段を上って上の本殿にたどりつくと、いつものご祈祷
      の真っ最中で、控室には順番待ちの人がぎっしり。
      受け付けのところまで行列ができている。
      ご時勢というか、3.11や不景気のせいなのか?!
      (私もしょっちゅう神サマ仏サマと手を合わせるけど)
      

      そういえば『源氏物語』には厄払いの祈祷場面が頻繁に
      出てくる。
      面白いというかメンドくさいというか、現代人にはとて
      考えられないのは方違い(かたたがえ)である。
      つまり外出するとき、忌むべき方角だと、いったん別の
      ところに泊って、改めて目的地に向かうことをいう。
      これは庶民も貴族もやっていたようだ。

      光源氏はそこでちょこちょこと女を見染める。
      空蝉(うつせみ)に逢ったのもそうだった。

      光源氏17歳の夏。(マセてる~)
      方違えで泊った紀伊守(きいのかみ)の邸で空蝉を見染
      め、その晩、一夜のアバンチュールをたのしむ。 
      空蝉にしたら、高貴な光源氏にいいよられて断わること
      ができないのだった。

      しかし、二度目からはそうはさせない。
      源氏が忍びこんでくると察すると薄衣一枚を残して、ど
      こかへ姿をくらましてしまう。

      源氏のあまたいる美しい高貴な女性の中で、さほど美人
      でもない空蝉になぜ、惹かれるのか。
      控えめでつつしみ深く、地味だが、立ち居振る舞いが
      水際立っていて趣味もいいというのだが。

      実は、誇りたかく謙虚な空蝉は読者、ことに男性が好き
      なようで人気ナンバーワンといったところ。
      この空蝉、作者の紫式部自身がモデルだという説もある。
       
   

荷風と洋食

2012-02-02 21:23:21 | 名所



      外国生活が長かったせいか、荷風は洋食、ことに
      肉料理が好きだった。

      写真は死ぬまで10年間通い続けたという洋食店
      「アリゾナキッチン」。
      下町情緒とはむしろかけ離れたアーリーアメリカ
      ン風の店で、店内には荷風の写真が2枚。
      1枚はカレーを食べているところと、もう1枚は雨
      に降られて足早に店を後にする荷風である。      

      荷風は毎朝11時30分きっちりにやってきて、
      ビールと肉料理を注文した。
      特にお気に入りはビーフシチューとチキンレバー
      クレオールというもの。
      (今でも同じメニューがある) 

      半月ほど毎日同じものを食べて、ようやく次の
      メニューにうつるのだという。
      この自由というか、こだわりがいかにも荷風ら
      しい。

      ここまできてようやく気づいた。
      私の場合、浅草入門編として文人から入るのも
      いいが、浅草そのものに馴染むというか理解す
      るには、私自身がもっと洒脱さを身につけなけ
      なければならないのだ、ということに。