唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 滅尽証(3)

2017-10-04 21:13:35 | 阿頼耶識の存在論証
 
 「寿」について、有部は命根であるといいます。『倶舎論』に「命根は體即ち寿なり、能く煖及び識を持つ。」と述べられています。煖と識とを保つ働きをもつものが寿と云われているのです。又、『中阿含』や『長阿含』には、寿煖識の三法が身から離れる時が、即ち死する時であると説かれているのです。有部は寿は実有であり、寿が煖と識とを維持し、煖と識とが寿を維持すると説いています。
 「命根は體即寿なりと云う。大乗は前は種子は是れ寿なりと説く。即命根なるが故にと云う。」(『述記』
 種子は名言種子です。第八識の中に蓄えられている名言種子が一期の間、相続させる作用の上に仮に立てられたもの、つまり分位仮立法とであるといいます。
 経量部は命根無しと主張していているのですが、そうすれば、何を以て寿とするのかと云いますと、色・心の断じない上に於て仮立されたものだと主張しているのですね。色は身体、心は受・想・思、或は受・想・思・触の三大地法及び四大地法を心行としています。
 このことを踏まえて本文を読みますと、部派でも滅尽定では身行・語行・心行はすべて滅していると説いているのですね。つまりですね、「滅尽定に住する者は、身と語と心との行が皆滅しないということはない、滅する。しかし、寿は滅しない。また煖を離れない。根は変壊することは無い。識は身を離れない」と。すべては滅した中でも「識は身を離れない」というのは、六識が滅した状態の中でも、身を離れない識が存在すると契経は述べているのですが、それが第八識の存在なのですね。
結論が、
 「若し此の識無くんば、滅定に住する者、身に離れざる識というもの有るべからざるが故に。」(『論』第四・四右)
 もしこの第八識が無かったならば、滅尽定に住する者の、身に離れない識というものはないであろう、ということなのですね。逆にいえば、第八識の存在が無いならば、滅尽定も成り立たないということになりますね。
 迷いもね、六識で迷っているのですが、迷いの根拠が第八識なのです。第八識は無覆無記という浄なるものですが、なにものにも覆われることのない識が、識の上に覆ってくるものがある、それが染ですね。第八識は分水嶺ですね。すべては依他起の上に成り立ってくるのですが、第八識を知る知見が円成実と云う智慧を生み、第六意識でのみ考えるところに遍計所執という闇を招来してくるのでしょう。
 無碍の光明は大円鏡智ですね、すべてを映し出す知見が闇の正体を暴いてくるのですね。
 「無碍の光明は、無明の闇を破する慧日なり」(総序)
 闇は触れないと破られることはないのですが、触れることにおいて闇がはっきりするわけですね。
 はっきりすると、智慧の光に依って知らしめられたということなのでしょう。
 意識で考えると云うのは、どこまでいっても我見ですね。身見でもあります。身に執着している見解ですね。その背景に愛着と慢心が潜んでいるのですね。そして道理を否定します。死んだら終わりという虚無思想、ニヒリズムに陥ります。
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