唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (98)九難義 (38) 第六 現量為宗難 (10)

2016-10-17 23:02:49 | 『成唯識論』に学ぶ


  前回は、原文を添付いたしました。

 「又、極微の合と不合とを許さば、その過は且く爾なり。若し、極微の有分と無分とを許さば、倶に大成る失と為る。
 所以は何ん。
 頌に曰く、
  極微に方分有らば、理として一を成ずべからず。無くんば、応に影と障と無かるべし。聚は異ならずんば、二は無し。」(第十三頌)
 論じて曰く。
  一極微の六の方分の異なるを以て多分を体と為す。云何ぞ一を成ぜん。若し一極微に異の方分無くんば、日輪の纔(ワズカ)に挙がって光の照触(ショウソク)する時に、云何ぞ余の辺に影の現ずること有るを得るや。余の分の光の及ばざる所無きを以てなり。又、極微に方分無しと執せば、云何ぞ此れを彼と展転して相障(アイフサ)ぐや。余の分の他の行かざる所たる此れと彼と展転して相障ぐと説くべきこと無きを以てなり。既に相礙げずんば、応に諸の極微は展転して処同じかるべし。則ち諸の聚色は一極微の量に同じかりて、過は前に説くが如し。
 云何ぞ影と障は聚に属して極微に属せずと許さざるや。
 豈に五くん微に異なりて、聚色有りて影を発し障を為すことを許すや。
 爾らず。
 若し爾らば聚にも応に二無かるべし。謂く、若し聚色は極微に異ならずんば、影と障とは応に聚色に属せざることを成ずべし。安布差別(アンプシャベツ)を立てて極微と為し、或は立てて聚と為す。倶に一実に非ず。」

 説明をいたしますと、
 極微は原子です。合は結合、不合は結合しないこと。「許さば」ですから、認めてしまうならば、その過失は前節で述べたようになる。
 有分は部分が有ること、無分は部分が無いこと。そのいずれであっても)(有分、無分を)認めてしまうならば、大きな過失となる。
 問、どうしてそのようなことになるのか?(外界実存論者からの問いかけになります。)
 論主(世親)は頌をもって答えます。
 方分は方向の部分、影は影像、障は障害、或は抵抗。聚は集まり。
 頌に言う。
 極微に方向の部分があるならば、理(道理)として極微が単一であることは成立しない。(これが一つ目の答えになります。)
 「若し無くんば」(もし方向の部分が無ければ)、影や障害は起こらない。部分が有りますから、影が有り、障害も起こってきます。無いとすれば、起こりようがないのです。(此れが二つ目の説明になります。極微に部分がなければ、影と障害はどうして起こるのであるか、ということです。)
 また、「聚は異ならずんば、二は無し」とは、極微にではなく、聚ったものに影や障害が起こると考えても、聚ったものは極微とその本性が異ならないから、この二(影と障害)は起らない。(第十三頌)
 ここで世親は釈して、更に説明します。(後日にします。)
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