唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (33)

2017-03-06 21:53:53 | 阿頼耶識の存在論証
    元興寺境内にて
 「無碍光の利益より
  威徳広大の信をえて
  かならず煩悩のこおりとけ
  すなわち菩提のみずとなる

 罪障功徳の体となる
  こおりとみずのごとくにて
  こおりおおきにみずおおし
  さわりおおきに徳おおし」 (『高僧和讃』曇鸞章より)

 昨日は、梶原先生より貴重なコメントをいただきましたので紹介します。用(ユウ)と体(タイ)についてです。
 梶原敬一 用に迷う、体に迷うはどのようなイメージですか?
 河内 勉 イメージですか。用に迷うのは歴史性だと思っています。引き受けてきた、どんな状況をも身は引き受けてきたということなんだと。
そして、転識した現行に迷っている。現実のすり替えが起こってくる。所知を知ることがないのも我見なのでしょうが、見えません。それが現行頼耶の問題なのではないかと。
引き受けられないままが、引き受けていることに迷っているのが所知の問題であると思っています。
 梶原敬一 用に迷うのは闇の中で世界を失うことでしょう。体に迷うのは闇が払われて光の中で闇の本である自分を見失うことではないかと思います。

 今日は、「此の識を阿頼耶と名く」を読んでみたいと思います。
 「雑染法(ゾウゼンホウ)と互に相い摂蔵(ショウゾウ)し、亦有情の為に執蔵して我と為らる、故に此の識を説いて阿頼耶と名く。」(『論』第三・十九右)
 雑染法(有漏のすべて)と互に摂蔵する。ここまでが一段です。
 現行と種子が互いに因と為り、果と為って関わり合っている。種子が現行を生み、現行が種子を阿頼耶識の中に熏習するということですが、八識の構造ですね、所依を学びましたが、第八識の倶有依は何であるのか。第七末那識ですね。第七識の倶有依が第八識で共依と云われています。第七末那識はただ不善、不善に変化させる働きを持っているのですね。前六識を汚してくるわけです。
 それが、倶有依として第八阿頼耶識に対して所蔵になるのです、蔵せられるものとしての阿頼耶識です。蔵するもの、能蔵ですが、これが阿頼耶識の積極的な能動的側面になります。
 そして、「雑染法(ゾウゼンホウ)と互に相い摂蔵(ショウゾウ)」されることが、有情の為に執蔵される、ここが第二段になります。
 今日もFBで書き込みしましたが、現量(自然法爾)が末那識によって雑染され、雑染されたのが我によって執され、識体である阿頼耶識に熏習される。ですから私の認識は私を認識しているにすぎないのですね。
 若し、私の意見が正しいと云えるのならば、末那識は転依され、平等性という智慧に転ぜられていなければならないですね。私の意見は正しいと云うのが我見なのです。身に備わったもので身見とも云います。
        有根身 (阿頼耶識の所縁)
 身  〈
        身識 (末那識によって執せられるものとしての身)
 我見は自分の中から出てくるんです。そして自分を縛ってくるのですが、縛ってくるのは我愛ですね。我愛が自分を苦しめると云う、おかしなことが成り立っているのですね。
 第八識と第七識は同時因果ですので、転依しない限り、第八は阿頼耶識、第七は末那識なんです。末那識は我執の心です。我執の心が阿頼耶識を愛着処として執してくるのです。ここがわからんですね。愛着があればこそ、執着をするのでしょうが、執着が自分を縛ってくる、それが我執だと。
 男女関係で思えば理解できますかね。愛すれば愛するほど相手を縛りますね。それが自我愛、愛することに由って自分に目覚める縁と為るのですね。ですから若いころの愛は純情なのです。
 この二つの意味から、第八識を説いて阿頼耶と云うのだと。

 FBの投稿を転載します。
 「友からラインが来ました。
 「唯識は学問でもなく、他者を斬る道具でもない。再認識して学んでいきます。」と。
 他者を斬ることにおいて、自分の領域を守っていこうとするわけですが、この他者は他でもなく、「我が身」だったんですね。
 想定している他者などどこにも居ないということなんです。
 若し他者が存在すると仮定すれば、他者を通してしか「私」を知ることができないということです。だから、どんなことがあってもご縁は有難いのですね。
 自分を知らされたご縁に手が合わさった時、真実に出会った喜びに転ずるのではないでしょうか。
 他者を斬ることなかれ。
 我が身が涙💧溢れて、
 自己を知らしめたご縁に、
 手を合わせよ、と。
 他者は居ない。無自性空なり。
 自分の思いの中で他者を演出し、恰も他者が居ると錯覚を起こして一喜一憂しているのは、自己との出会いの中の出来事なのだ。
 いつでも、どんな時にでも、いかなる状況にあっても、自分は自分に出会っている。
 自分に出会っているんやで。
 「 あ、そうやったんや」と言えた時、闇はなかったと気づきを得るのではないのか。
 僕はいろいろな人間関係のご縁の中で、自己保身を図るのはどうしたらいいのか、八方美人でいたいと思う思いの中で悶々といているんです。
 怒りや妬みは自分にとっては一番嫌なところなんでしょうね。ところが、一番嫌なことが、自分に出会うキーワードだったんですね。
 「悪を転じて徳となす」
 「煩悩の濁水転じて菩提の水となる」
 気づきを得させていただきました。南無」
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