唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 滅尽証(2)

2017-10-02 20:58:41 | 阿頼耶識の存在論証
  
 本文に入ります。
 「又、契経に説かく、滅定に住せる者(ヒト)は、身と語と心との行を皆滅せずということ無し、而も寿(ジュ)は滅せず、亦は煖(ナン)を離れず、根は変壊(ヘンネ)すること無し、識は身に離れずと云う。」(『論』第四・四右)
 また、ある滅定を説く経には次のように説かれている。
 (第一は滅尽定について)滅尽定に住せる者は、身と語と心との行が皆滅しないと云うことは無い、滅するのである。しかし、寿は滅しない、また煖(あたたかさ)を離れない、根は変化し壊れることは無い。識は身を離れない、と。
  『述記』の釈には、
 「述して曰く。自下は第九に滅定をいう契経なり。此の定に入りぬる者(ヒト)は身行の入出の域を滅しつ、・・・行とは因の義なり」と。滅定を説く経典には、「滅尽定に入っている者の身に離れない識があると」説かれていることを教証として挙げています。それが転識ではなく、第八識であるということになります。
 「身と語と心との行」とは、身行と語行と心行のことで、行とは因の意味であるということです。少し詳しくいいわすと、身行とは、身を動かせる因であり、語行とは語は言語ですから、言語を働かせる因(言語表現の因)、心行とは精神活動の因という意味になります。
 そして部派仏教では身行を入出息、語行は尋伺とし、愛と想のみを心行として『述記』は釈しています。これは経量部の主張になります。有部は十大地法を以て心行とし、心の有無に随って心行の有無もあると考えられています。
 「此れが中に亦十大地を以て倶に心行とする有り、心に随って有無なるが故に。然るに勝れたる者に随って唯受と想とをのみ説いて以て心行とせり。」(『述記』第四末・十二左)
 またにします。
 
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