唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

雑感 (2)

2016-11-12 22:58:22 | 『成唯識論』に学ぶ


 よくある粗相なのですが、貴重な体験をさせていただきました。過去にも同じようなことを二度しておりますが、今回は慌てました。それというのも、仕事を終えて、お腹の調子もいまいちだし、何か暖かいものでも食べようかと、S君にラインを入れました。快く受け入れてくれ、地下鉄難波駅で待ち合わせをしました。ここまでは良かったんです。
 おでんでも食べようかと三っ寺筋へ向かったのはいいのですが、何か変な感じがして、ズボンのポケットを触ってみたんです。そしたら有るべきものが無いのです。「あ、財布が無い」とつぶやきました。「え、どうしたんだろう」、いろんな思いが交錯して頭が真っ白になりましたね。
 S君も心配してくれて、「よく捜して、ほんまにありませんか。心当たりがありませんか?」と。
 ところがですね、僕は、ポケットに入れていると思い込んでいますから、落としたのか、ひょっとすると自転車のかごの中(洗濯物をかごに入れていましたから)、それとも難波駅の混雑の中ですられた?いずれにしても無いわけです。
 これは方向は定まっているのですが肝心の中身が抜けているので、目的地にはたどり着くことが出来ないという結果を引き起こしてきました。
 財布が無いという気づきが自の執を暴き、慌てふためくという闇(無明)を現出しました。ここで、闇は真実がわからないという所から引き起こされてくる問題であることがはっきりするわけです。
 S君には「ごめん、今日は無しということで、あとで連絡入れる」と言って、とりあえず引き返したのです。財布をポケットに入れたのか、入れなかったのか、頭がグルグル回っているのです。このグルグルは真実に触れなければ解決できないことなのです。
 もともと財布を持ってでなかったとすれば、そこで安堵します。
 しかし、持って出て無いとすれば、後の対応というか、行動を取らなくてはなりません。
 どちらにしても、方向がはっきりするわけです。
 それまでは疑心暗鬼ですね。
 私たちの日常生活は疑心暗鬼なのではありませんか。財布で喩ましたが、私たちにとって財布が無いというのは「仏・法・僧」の三宝を見失っていることだと思います。見失っていることがはっきりすれば、一応の道筋は立ちます。
 「本当に大事なことが見つかったら、のうのうと生きてはおれんやろ。何が大事なことか捜すやろ」と教えて頂いておりましたが、まさに、財布が無いから、S君すまんが立て替えてくれるか」といって食事にいきますか、ということですね。行かないですね。
 しかしね、私たちは、これを平気で行っているんですよ。先ほど疑心暗鬼といいましたが、疑いが無いということが疑心暗鬼なのですね。
 「私は間違っていない」という執という問題があります。
 「もし、私が道を踏み外しているとしたら、社会に問題がある」という問題のすり替えです。
 財布が無いということも、財布が一人で右に行ったり、左にいったりはしません。落としたとしたら、僕が落としたのです。忘れたとしたら僕が忘れたのです。もし掏られたとしたら、掏られるような態度を取っていたのでしょう。
 「わからなくなったら、はじめにかえる」とは安田先生のお言葉ですが、会社にもどればはっきりすることなのです。「生きること、生まれてきたことの原点にかえる」ことが絡んだ糸をほぐすことになるのでしょう。
 会社に戻って、ロッカーを開けましたが見当たりません、やばい。作業場かな?作業場にも無い。着替えをしてどこに置いたんだろうと考えてもわからない。いよいよ警察に届けなければならないかと思って、ふと月曜日に出荷しなければならない商品の中を覗いて見ますと、なんと、そこに置き忘れていたんです。何故かわかりませんが、置いたんですね。すっと安堵です。
 はっきりすれば安堵する。「大安慰を帰命せよ」とのお言葉が響いてきますね。
 日常生活の中から「問い」を持つことの大切さを、財布の一件で教えられました。
 お休みなさいませ。 南無阿弥陀仏
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 雑感 (1) | トップ | 覚書 (十一月度講義概要) »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

『成唯識論』に学ぶ」カテゴリの最新記事