唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (82) 雑染と清浄(3)

2017-06-09 20:18:01 | 阿頼耶識の存在論証
 
 今日は、清浄法についての『論』の記述を読みます。
 清浄法に三ありと述べられます。
 「諸の清浄の法にも亦三種有り、世(セ)と出世(シュッセ)との道(ドウ)と断果(ダンカ)と別なるが故に。」(『論』第四・十左)
         世の道
  清浄法 {  出世道の道  } 三つの種類の別がある。
         断果
 「有漏の六行を世道と名づけ、無漏の能治を出世道と名づけ、所得の無為を断果と名づけ、断は是れ果なり。」(『述記』第四本・四十一左)
 六行観については、第三能変上下相起門に詳細が述べられています。(2014年10月15日以降を参照してください。)
 ちょっと復習の意味で転載します。
 
 「三界分別門のその二、上下相起門に於いて、
 「下地(ゲチ)に生在(ショウザイ)して未だ下(ゲ)の染(ゼン)を離れざるときには、上地(ジョウチ)の煩悩を現在前せず、要ず彼の地(ジ)の根本定(コンポンジョウ)を得たる者のみ彼の地の煩悩をば現前す容きが故に。」(『論』第六・二十右)
 下地とは欲界のことですが、生きとし生ける者(有情)が欲界に在って、未だ欲界の染(欲望・執着)を離れない時には、上地(色界)の煩悩を現在前することは無い。
 かならず、その地の根本定を得た者のみ。その地の煩悩を現在前させるからである。

    下地 → 上地へ
           (未至定) = 上地の煩悩は現れない。

 下地から上地へと歩を進める中で、下地の煩悩を離れていない時は、上地の未至定に入っているけれども、その地の根本定を得ているのではないので、上地の煩悩は現れないのである。即ち、下地の煩悩を離れて初めて上地の煩悩が現れるのである、と説明されています。
 欲界では十の煩悩はすべて整っているといわれていますが、特に瞋ですね。この煩悩は欲界のみに存在するといわれています。このことから察するに、欲界に在っては、瞋を除いて九の煩悩の分別起は不善であるが、倶生起は有覆無記であるという、そして上地に在っては分別起・倶生起を問わず、有覆無記が上地の煩悩ということになりますね。
 そうしますと、問題は瞋という煩悩から離れることは出来るのかということです。「いかり、はらだち、臨終の一念にいたるまでたえず、きえず」という自己の問題は、私たちは欲界から出ることは出来ないという自覚になるのではと思うのですが。欲界にのみ存在する瞋はただ不善であることは、救われる手がかりがないということになります。まあ甘い夢を見るなということでしょうね。しっかりと脚下を見よということになるのでしょう。聞法はこれしかないんだという目覚めだと思うんです。もったいない人生を生かさせていただいているんだな、という驚きと感謝の念が、瞋を縁として聞法に向かわせる道が開かれてくるということになるんではないでしょうかね。
 救われるべき縁の喪失が、すくわれる縁となるという大悲心なのでしょうか。
 上の煩悩とありますが、色界・無色界は「定に伏せらるる」といわれていますように、上二界の煩悩は分別起・倶生起を問わず無記であるということ。
 欲界は、欲望の世界、五欲が満ち溢れている世界ですが、そういう世界が有るわけではありませんね。心の影像、相分、自らが、自らの心の状態を外に投げ出したものなのでしょう。
 欲界のものは、分別起は不善である。倶生起のものには、悪業を發するものと、發しないものがある。ここですね、悪業を發するものは不善として働く。しかし、欲界に在っても、悪業を發しないものは有覆無記として働く、上の未至定とは一面上地に触れているが欲界の煩悩を離れていないから、上地の煩悩は生じないというわけです。
 しかし、次科段では、下地にいる者が倶生起の粗い煩悩を伏して上地の根本定を証得しうることができるのであるのかを説いています。
 「諸の有漏道は分別起の惑と及び細なる倶生とをば伏すること能わずと雖も、而も能く倶生の麤き惑を伏除(ブクジョ)して漸次(ゼンジ)に上(ジョウ)の根本定を証得(ショウトク)す。」(『論』第六・二十右)
 諸々の有漏道(「此は修を伏することを顕す」六行智=六行観)は、分別起の惑と及び細かい倶生起の惑は伏することはできないとはいえ、よく倶生起の麤なる惑を伏除して漸次に上の根本定を証得するのである。
 •六行智(ロクギョウチ) - 六行観ともいう。「下地は麁(そ)・苦(く)・障(しょう)、上地は浄(じょう)・妙(みょう)・離(り)の六行観を以て生ずるなり。」という六つの認識のありかた。下地・上地の有漏法を観察して、漸次に八地・七十二品の修惑を断じて智慧を得ていく修行法をいう。
 即ち、下地を麁(そ)・苦(く)・障(しょう)であると観じてこれを厭離し、上地を静(じょう)・妙(みょう)・離(り)であると観じてこれを欣求し、厭離と欣求の力に由って下地の煩悩を伏していくものであると云える。また、六行智による修行の道は、煩悩が有る修行の道であると云われ、有漏道といわれ、分別起の惑と、及び細かい倶生の惑とを伏することはできないが、麤い倶生の惑を伏除することができる段階とされます。これはただ事観であるので、迷理の惑を伏することはできず、迷理の惑は無漏道によって伏されると云われます。
 麤とは「身・辺見と及び此と相応するを除くなり」と。分別起の煩悩と細かい倶生起の身見(薩迦耶見)と辺執見とこれらと相応する煩悩は伏除することはできないと云っているのです。いえば、倶生起の麤い煩悩は漸次に(次第次第に階段を上るように)伏除することができ、次第次第に上地の根本定を証得することができるということを説いているのです。」

 世道とは有漏の六行観を指します。傍線の部分です。欲界を麁(そ)である・苦(く)である・障(しょう)であると観想し、色界以上は浄である・妙である・離であると観想し、この定によって上界に生まれるとされますが、娑婆を厭離し、浄土を欣求するのが世の道であると諭しているのですね。聞法ですね、聞法は無漏道とはいえないかもしれませんが、無漏に一分は触れていますね。そこには分別を超えた働きが動いているのでしょう。欲にまみれて生活をするのではなく、欲をご縁として仏道に触れていく、これが世の道と云われているのです。

 法は無漏ですが、自分の都合で聴いているんです。それでいいんだと思いますが、やがて都合が破られてくる、そこが大事なところですね。
 
 出世道とは無漏の根本智と後得智を指します。
 断果は無為ですね。
 無為を覆っているのが煩悩です。自分の都合に応じて顕れてきます。その煩悩を断じた結果を断果と言い表しています。
 次に、第八識が存在しないのであれば世道と出世道と断果の三つの清浄法も存在し得ないことを論証してきますが、ここで十理証の概略は述べ終ったことにしておきます。次回より十理証の中でも大事な四食証について詳細を考察したいと思います。
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