唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 第四 随煩悩の心所について (39) 中随煩悩 無慚・無愧 (5)

2015-07-16 22:29:44 | 第三能変 随煩悩の心所
  

 昨日の記事で、河合師よりコメントをいただきました。「なんと!?!?!?
教えに遇うことが、、、恐怖!、、、
それは、、想定外デス……
ケド、、先達がユワれるんですから、、、考えマス_(_^_)_
 素直にコメントしていただいて有り難いです。ちょっと言葉足らずな所が有りましたので補足させていただきます。
 「自分に会いたいけど会いたくない」、私たちが教えに会いたくない理由の一つに「自分に会うのが怖い」という一面があるように思えます。本当の所を知りたいのだけれども、知り得るのが怖いという所だと思います。例として適切でなないと思いますが、私たちは死を宣告された病を引きずっているのではないでしょうか。それを経済至上主義の元に何とか忘れようとして日暮をしているように思えます。求めている先は竜宮城。時を忘れ、いつしか若さも失って、過去の栄光にしがみついて、やがて訪れるであろう死と向き合わなければならない時、「自分の人生は何であったのだろうか」という虚しさの中で人生の終焉を迎えなければならないと云う現実があるわけです。
 私たちは常日頃、他者の死は目撃するわけです。他者の死でしかありませんね。他者の死だから、「亡くなられたんや」ですまされるわけです。これが自分の死であったなら、こんなこと言うてられません。何故、他者の死を通して自己の死に向き合うことができないのでしょうか。僕は、「したくない」と思っているからではないですか。恐れがあるんだと思いますね。自分が死ぬことは恐怖なんです。
 お寺に人が集まらないというのは、反面「本当の所を知らされるのが怖い」からだと思うのです。それはね、お寺さんの責任だと思います(笑)。お寺の門を閉じると云うのは、真実に眼を背けなさい、と言っているようなものだからです。迷いを迷いとも知らず、求めていることが、自分を縛ってくるものであるとも知らず、死と生を分離し、死を忌み嫌い、生の謳歌の元に生き甲斐を模索しているのが私の姿ではないでしょうか。
 光があっても見えず、闇の中に一筋の光を見る。
 光の中に闇を見れば、恐怖そのものでしょう。絶望しかありません。開放される手だてが無いからですね。
 しかし、闇の中で輝いた一筋の光は、私を解放してくれます。何故なら、闇は光の中で闇だと知らされたからです。闇でも問題はないのです。闇でも歩けるんですね。
 人生の中で、生き方に疑いを持つ、「このままでいいんだろうか、このような生き方でいいのか」。僕は19歳の折に「生きるってどういうこと、死んだらどうなるの」という疑いをもちました。そうしますと、死にたくないものですから、眠れなかったですね。朝、目が開く保障はどこにもないからですね。疑いが晴れない恐怖があるんです。それはまた、真実を知らされたくないという恐怖でもあるんですね。しかし、自分と云う者は都合のいいもんです。いつしか忘れます。忘れて世の中に埋没していきます。埋没した人生が30年つづきました。生きててよかったですね。疑いを持ったら、疑いが晴れるまでは死ねん、死なさないということでしょうか。
 「教えに遇うこと・・・恐怖」ということは、僕の場合で云えば、「この道一つ」と決意した時があったわけです。どのように聞いていたのかはわかりませんが、教えに自分の生き方を尋ねていた時期もあったのです。退転して以降は、教えを閉ざしたんです。「悪道に堕す」とはこのことです。一旦教えに遇った者が遭遇するジレンマが恐怖心ですね。教えと自我の葛藤の中で、襲い来る恐怖があるんです。それは、後悔と云う名の恐怖ですね。これは簡単には解けないです。
 「何故自分は退転したのか」、此処に立つ時、どうしてもその責任を他に向けます。避けて通りたいんです。避けて唯識を語っておればいいわけですが、そうはさせてくれません。どうでしょうか、避けて通れれば通りたいのではないですか。それは恐怖心が立ちはだかっているからでしょう、そのように思います。しかし、恐怖心を超えて、恐怖心を御縁として本願念仏の教えに出遇っていくのではありませんか。
 どうも、意を尽くすことは出来ませんが、教えに遇うということは、否応なしに自分に向き合わなければならない。向き合うことの怖さだと思います。でもここを突破しないと、教えに出遇うということは成り立たないのではないでしょうか。
 僕の課題も、當に此の一点です。もう一つ、恐怖心は妥協を求めてきます。これがまた怖いですね。新たな闇を作りだしてきますからね。
 「身命を惜しまず、晝夜精進して頭燃を救ふがごとくすべし」
 大乗仏教徒は、仏道を志す原点における自己回避の事実に眼を背けることなく、仏道を自己から逃避する為の道具にすることなく、求めるに先立っての怖れに向きあっているのではないでしょうか。そこから生み出されてくるのが「無慚・無愧の我が身にて」という悲歎ではないかと思われてなりません。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿