唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (97)九難義 (37) 第六 現量為宗難 (9)

2016-10-13 22:06:15 | 『成唯識論』に学ぶ


 今日からは、『二十論』第十三頌から学びます。
 影と障の問題に答えています
 「又、極微が結合することと結合しないことを認めるならば、その過失は前に述べたことである。若し、極微に部分が有ること、無いことのいずれであっても、それを認めるならば、どちらの場合も大きな過失と為る。」と結論を挙げていますが、外界実存論者は「どうしてか?」と尋ねてきます。ここで論主は頌をもって答えられます。
 先ず原文を挙げ、書き下しを施し、現代語訳を付属します。梵本和訳は、中公『大乗仏典』に依ります。
 
 「又許極微合與不合。其過且爾。若許極微有分無分。倶爲大失。所以者何。頌曰 極微有方分 理不應成一 無應影障無 聚不異無二論曰。以一極微六方分異。多分爲體。云何成一。若一極微無異方分。日輪纔擧光照觸時云何餘邊得有影現。以無餘分光所不及。又執極微無方分者。云何此彼展輪相障。以無餘分他所不行。可説此彼展轉相礙。既不相礙。應諸極微展轉處同。則諸色聚同一極微量。過如前説。云何不許影障屬聚不屬極微。豈異極微許有聚色發影爲障。不爾。若爾聚應無二。謂若聚色不異極微。影障應成不屬聚色。安布差別立爲極微。或立爲聚倶非一實。」(『二十論』大正31・76a) 

 「又、極微の合と不合とを許さば、その過は且く爾なり。若し、極微の有分と無分とを許さば、倶に大成る失と為る。
 所以は何ん。
 頌に曰く、
  極微に方分有らば、理として一を成ずべからず。無くんば、応に影と障と無かるべし。聚は異ならずんば、二は無し。」(第十三頌)
 論じて曰く。
  一極微の六の方分の異なるを以て多分を体と為す。云何ぞ一を成ぜん。若し一極微に異の方分無くんば、日輪の纔(ワズカ)に挙がって光の照触(ショウソク)する時に、云何ぞ余の辺に影の現ずること有るを得るや。余の分の光の及ばざる所無きを以てなり。又、極微に方分無しと執せば、云何ぞ此れを彼と展転して相障(アイフサ)ぐや。余の分の他の行かざる所たる此れと彼と展転して相障ぐと説くべきこと無きを以てなり。既に相礙げずんば、応に諸の極微は展転して処同じかるべし。則ち諸の聚色は一極微の量に同じかりて、過は前に説くが如し。
 云何ぞ影と障は聚に属して極微に属せずと許さざるや。
 豈に五くん微に異なりて、聚色有りて影を発し障を為すことを許すや。
 爾らず。
 若し爾らば聚にも応に二無かるべし。謂く、若し聚色は極微に異ならずんば、影と障とは応に聚色に属せざることを成ずべし。安布差別(アンプシャベツ)を立てて極微と為し、或は立てて聚と為す。倶に一実に非ず。」
  
 語句説明
 安布差別(アンプシャベツ)とは、事物の配列、配置、組み合わせを指しますが、ここは極微(原子)の配列の相違によってさまざまな物や形が生ずるという思考による分析に基づく色の特別な様相を立てて、という意味になります。

 第十三頌は前段を受けて、世親が、極微が結合すること、しないこと、極微が部分を有すること、有しないことを論ずることは大きなな過失になることを論理的に正しくないと論証し、極微は実在しないことを証明しようとしています。
 現代語訳は明日にします。
 
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