唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(10)識食(シキジキ)の体

2017-07-17 09:40:24 | 阿頼耶識の存在論証
  
 識食の体についての説明です。
 「此の識は、諸識の自体に通ずと雖も、而も第八識いい食の義偏に勝れたり、一類に相続して、執持すること勝れたるが故に。」(『論』第四・初左)
 此の識(識食)は、諸識の自体に遍満しているとはいえ、第八識が食の義ということでは他の諸識に対して偏に勝れているのである。
 何故ならば(理由を挙げます)①一類に ②相続して ③執持する作用が勝れているからである。
 従って、第八識をもって識食の体とするのである。
 識食の体は第八識であることを本科段は明らかにしています。
 三つの理由が挙げられています。(『述記』の釈より、)
 (1) 「改易せず恒に一類なり」(変化せずに恒に一類を保ち)
 (2) 「間断なくして、常に相続して」(不連続の連続という間断が無くして相続している)
 (3) 「執持すること勝れたるが故に」(執持する作用が勝れている)
 尚、この場合の執持は、維持する、保持するという意味。
 一類は、変化せずということですが、三性に於ける善・悪・無記の中、第八識は無覆無記として善でもなく、悪でもなく、ただ無記性であるということです。
 第七識はただ不善ですし、六識は三性に通じています。
 一類相続は、無始よりこのかた絶えることなく相続してきたことを表します。(恒に転ずること暴流の如し)
 ここで思い出されることは、第四教証の偈頌ですね。『入楞伽経』にも是の説を作す。
 「海の風縁に遇うて種種の波浪を起し、現前に作用転じて間断する時有ること無し。」という喩を以て、「眼識等の諸識は大海の如く恒に相続して諸識の波浪を起すこと無し。」という一文です。
 第八識と諸識とでは立ち位置が違うのですね。眼識は眼識として識体はあるけれども、眼識が耳識の体と成ることは無いのです。
 つまり、第八識が識食の体として六識を支えている。従って、六識は現行においてのみ段食であり、触食であり、意思食であるのですが、第八識の体である識食は現行と種子の二つの側面から食であることを明らかにしているのです。転識と本識の関係ですね。
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