唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(18)論破

2017-08-12 20:42:57 | 阿頼耶識の存在論証
   興福寺伽藍と食堂(現国宝館)
 昨日は因明から有部の説を論破する一段を読ませていただきました。三支作法からですね、
 《宗》「無心位の過去や未来の識等は、食の体用が無い」
    「定の前後去・来の有漏の順益するの識は食の体用に非ざるべし。」(『述記』)
 《因》「現でも常でもないからである」
    「現常に非ざるが故に」(『述記』
 《喩》「空華の如く」
    「空華等の如くと」(『述記』
 こういう形になるかなと思います。
 次科段に移りますが、若し、過去・未来の識等に体・用があるとしても問題があると指摘します。(「自下は設ひ体・用有ると云うを許すを難ず。」(『述記』)
 「設ひ体用有りとも、現在に摂めらるるに非ざるを以て、虚空等の如く、食の性に非ざるべきが故に。」(『論』第四・二左)
 これは、仮定であって実有ではないとして論破しているのですね。
 「去来の識等は上に言う所の如し。亦食の性に非ざるべし。(宗)
 「現在に非ざるが故に」(因)
 「虚空等の如し」(喩) 以上『述記』
 次科段は「上来は世を破す。下は別して法を破す」(『述記』)つまり、有部の主張をあげて有部の主張を否定し、後にその否定される理由を述べます。
 「亦、定に入らむとする心等を、無心位の有情の与(タメ)に食と為すとは説く可からず、」(『論』第四・二左)
 「無心に住せる時には、彼いい已に滅しぬる故に。過去は食に非ずと云うことは、已に極成せしが故に。」(『論』第四・二左)

 有部の主張は「定の前の久心(クシン)は是れ食の性に非ざれども、入定に隣る心いい正しく是れ食の体なり。無心の位の有情のために食とするを以て、亦食をもって住すと名づく。」(『述記』)というのです。
 ここは「久」と「隣」をもっての主張になります。「久」は定にはいる久しい前の心、つまり六識は入定中の識食と体とはならないが、入定に隣接する心は正しく識食の体となるんだと主張をしているんですね。
 護法さんは、「また定に入ろうとする直前の心等を、無心位の有情の為の食の体と説いてはならない」と有部の主張を否定しているのです。この理由が次の科段で述べられます。過未無体を以て答えられています。明日にします。

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