唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変 所縁門 (17) 末那識の所縁について 護法正義

2011-08-25 23:09:24 | 心の構造について

 護法正義を述べる

 正義を挙げる

 「応に知るべし、此の意は但蔵識の見分のみを縁ず、余には非ず。彼は無始より来一類に相続せり、常一に似たるが故に。」(『論』第四・二十七左)

 (まさに知るべきである。第七識の意はただ第八識の見分のみを縁じる。余(他 - 相分と種子と心所)のものではない。何故ならば第八識の見分は無始よりこのかた一類に相続し、常と一に似た存在だからである。)

 護法正義は「第七識はただ第八識の見分のみを縁じる」というものですね。余というのは相分と種子と心所という見分以外のものであり、それらを縁じないということです。その理由は一類ではなく間断することを以ての故です。

 「無始よりこのかた一類に相続し、常一に似たるが故に」と。

 「唯し識の見分のみは無始の時よりこのかた麤細一類にして常に似一に似て断ぜざるが故に。「常に似る」というは彼の境界を簡ぶ。彼の色等の法は皆間断するが故に。種子も亦然なり。或時は永断せらるるが故に。此れに由って亦余の識を計して我と為すをも遮しつ。「一に似たるが故に」というは心所を簡ぶ。心所は多の法なるが故に」(『述記』第五本・二十八左)

 第八識の見分は「無始よりこのかた一類に相続し、常一に似た存在」であるということ、他に変化しないということです。「常」とは常住不変であり、生滅変化したり間断したり、断絶したりしないという意味であり、「一」とは多ではないという意味になります。これは「我」そのものが常一に似るという意味をあらわし、我が常一に相似した存在として、第八識の見分を縁じて永遠不滅の我であると錯覚を起こし我として執着するのです。

 「論に似常一故とは、疏の所簡に依って云はば、四句を為す可し。一には常に似るとも一に非ず。第八の心所なり。(二に)一に似るとも常に非ず。眼等の転識(七転識)なり。(三に)一にも似、常にも似る、頼耶識の体なり。(四に)一と常とに似るに非ず、転識と倶なる所(我所)と諸の種と色との等なるものなり。」(『演秘』第四末・十一左)

 この項、明日に続けます。

 


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