唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

本日の講義内容をまとめてみました。(事前学習)

2017-02-24 10:31:21 | 阿頼耶識の存在論証
  

 本日の講義内容をまとめてみました。(聞成坊。会所は八尾別院書院。午後二時より)
 
 阿頼耶識の存在論証の第一教証を学んでいます。前回からの復習になります。
「謂く能く諸の種子を執持するが故に。現行法のために所依となるが故に。即ち彼を変為し応び彼が為に依たるを以て。彼を変為すれば、謂く器及び有根身とを変為す。彼が為に依たりと云うは、謂く転識がために所依止と作る。能く五色根を執受するを以ての故に、眼等の五識之に依って転ず。又末那がために依止たるが故に。第六意識之に依って転ず。末那と意識とは転識に摂めたるがゆえに。眼等の識の如く倶有根に依る。第八理いい応に是識性なるが故に亦第七を以て倶有依をなすべし。」(『論』第三・十七右)
「依」を解釈する段になります。総・別に分けられて説明されます。
つまりですね、第八識は諸々の種子を持続して一切の現行の為に所依(依り所)となる。もし、種子を熏ずる所がなかったなら、現行は何を依り所として起こってくるのか、或は過去のことを思い出すのは、どこからでてくるのであろうか、という問いが生れます。
 第八識は五根等を変為し(第八識は五根等に変化させる働きを持つ)また、七識(眼・耳・鼻・舌・身・意・末那識の七転識)が現行するための依り所となる。
(別釈)
第八識を変為するというのは、第八識は能変の識体です。能変の識体が所変の相・見分を変為するわけです。第八識の具体性になります。では第八識は何を所縁とするのかといいますと、種子と有根身の二の執受と器世間なのです。これを見分が認識をしているのです。身と処の問題ですが、身と処以外に認識の起る所は無いといっているのですね。
総結として、
「是を此の識(第八識)が因縁と為る用(ユウ・働き)を云うのである、と。全ては第八識の中に所蔵された種子と、種子を依り所とする因縁によって現行が生ずるのである。
 つまりですね、所依と所縁とを明らかにしているのです。
 下の二句について考えたいと思います。
「此れに由って諸趣と、及び涅槃の証得(ショウトク)と有りと」(「由此有者由有此識」。『論』第三・十七右)
(此の識有るに由って云うなり)を釈していきます。此の識は第八識です。「有と云うは」は「有諸趣」を指します。「有諸趣」とは何か?です。
「此の識有に由ってと云はむとぞ。」
「諸趣有と云うは、善・悪趣有と云はんとぞ」(『論』第三・十七右)
 趣は趣向、趣くことで、生き物の生存のあり方を云いますが、これを能趣と所趣と趣資具の三つに分けて考えています。(後に説明されます。)
 過去の業果としての生存に五趣有りと(或は六趣)云うわけです。地獄・餓鬼・畜生の在りかたを三悪趣と。人・天は善趣と云われておりますから、過去の業が人・天の境涯を持つような業を積み重ねてきたのでしょう。しかし、この境涯は生死流転を漂っていますから、人としての身として、五道を経めぐりする生存になりましょうね。こういう所に「問い」が与えられているのだと思います。流転と還滅の法は一息一息の中に動いているといってよいのでしょう。
 この流転と還滅の法の依り所が第八識である、と。
 縁は無記性。
 「有諸趣者 有善悪趣」は有漏種子の現行なのですね。生まれた、生をうけたということは、有漏種子を引きずって生まれたということなのでしょう。でも、この有漏種子が転依の機縁となるのですね。無漏種子は仏果ですから、流転はしません。阿頼耶識の所縁は流転しないのです。「いつでもここに帰れ」というシグナルを送っているのですね。帰ってみれば、依他起性です。縁起ですね。依他起性において円成実性・大円鏡智に触れて、我執の愚かさに気づきを得ることができるのでしょうね。「愚かさ」が大事なのですね。天狗の鼻はへし折られないと、天狗であったことが分からないのです。私たちもおなじですね。天狗です。何も鞍馬山においでになるのと違いますよ。 
 阿頼耶識の所縁が「覚」のキーワードになるように思いますが、どうでしょうか。
 「惑と業と生と皆是れ流転なりと雖も、而も趣は是れ果として勝るが故偏に説けり。」(『論』第三・十七左)
 「惑と業と生との有漏の集・苦は皆是れ流転なり。皆生死の法なりと雖も、然も五趣是れ生死の苦果にして勝れたるが故に偏に説けり。果は正しく生死なり、是れ所順の法なり。業と惑とは能く生死の果に順ぜる性なり。故に偏に果を挙ぐ。」(『述記』第四本・八左)
 本科段は問をうけて答えています。
 有漏の苦・集はすべて流転というべきだろう。頌(『大乗阿毘達磨経』)の中では何故諸趣のみを流転の法と説いているのか、ですね。
 五趣である境涯が、流転なのだということなんですね。
 「惑」は無常である自分が受けとれないということ。受け取れませんね。僕は僕自身は有ると思っています。いくら無我だと云われても、無我になりきれません。無我、言葉を変えれば「空」ですね。自分は縁起的存在ということでしょう。
 動きは「空」だと思うんです。そこに解釈をしている自分が居る、後からですね、そこで縛られているのではないのかなと。「空」という仮説されたものは、一瞬の動きの中で表現されているのではないですか。僕は、意識を介在して自分は動いているように思っているんですが、そうではありませんね。無意識の中でデーター化されたシグナルが意識を動かしているのではないですか。
 現在している(現行)のは果ですね。因が種子です。因である種子が五趣という果を引生してくる、引き起こしてくる。
 五趣という生き様は、人として地獄の生き方、餓鬼の生き方、畜生の生き方をしている、どこでかというと、「今、現に」ですね。そういう揺さぶりが種子から生まれてきている。揺さぶりを警覚(作意の心所)と表現したのはないでしょうか。だから、今どのような種子を心に植え付けていくのかが問題とされるのでしょう。
 すべては第八識の中に蓄えられた種子が生起の因となることを論証しているわけです。
 『論』に説かれます「趣」の意味がつづきます。
 「或は、諸趣と云う言は能・所趣に通ず。(『論』第三・十七左)
       能趣(趣かせるもの) = 業と惑と中有
 諸趣 〈
       所趣(趣く所) =五趣の苦果

 中有は次の生を牽いてきます(生有)から因になるわけです。能趣は因、所趣は果です。つまり惑・業を因として、果である苦を牽いてくるわけです。
 この具体性が次の科段における「資具」になります。
 「諸趣の資具も亦趣と云う名を得。」(『論』第三・十七左)
       器世間
 資具 {       } 趣
       惑と業

 (第一義) 器世間は五趣の赴く所です。器世間において五趣は動いているわけです。これは所趣になります。
 (第二義) 惑と業を携えてという意味になりましょうか。
 趣は、ただ果を云うのではなく、果を生み出す因の能(業・惑)と器世間(苦果)を包み込んでいる、ですから唯だ所趣だけを云うのではないということになります。
 総結
 「諸の惑と業と生(苦)とは皆此の識(第八識)に依る。是れ流転がために依持とる用なり。」(『論』第三十七左)
 流転を生み出してくる働きは第八識に依るのであると結んでいます。
 第八識があることに由って煩悩・雑染を生じて苦界を現成してくる、その依持が第八識であることを明らかにしている。
 ここで問いが出されます。
 「還・滅等の為に依持たる用とは、その義如何。」(『述記』第四本・十右)
  「及涅槃証得と云うは、此の識有るに由るが故に涅槃の証得有りと云うなり。」(『論』第三・十七左)
 ここは、『頌」の下の一句「及涅槃証得」の説明になります。
 「及涅槃証得」は「由有此識故」なのです。此の識は第八識です。この第八識が有ることに由って、流転することが出来る、迷えることが出来るのです。おかしな言い方ですね。流転はしないほうがいい、迷いは無い方がいいですよね。しかし、そうは仰らないで、「~することが出来る」と言われます。
 人間は、意識していなくても、「僕は」「私は」と主語をつけて話します。つまり二元化の下で生活をしているのです。僕という意識下において迷いが成り立っているのですね。それは、迷いを翻す縁になる、僕を依り所にして、惑・業・苦の生死流転の輪廻を縁として解脱を求める存在になり得るわけでしょう。これが人間本来の本能ではありませんか。
 古代印度には、人生の目的としてチャトル・ヴアルガが説かれていました。実利(アルタ)・愛欲(カーマ)・法(ダルマ)・解脱(モークシャ)の充足を目的としていたのです。人生を四つのカテゴリーに分けて、人生の意味を解脱に求めたのでしょう。このことは、迷いから解脱へ、解脱から迷いへという流れの中で人間としての生き方を考えていたと云うことに他ならないと思います。そこに、私を依り所とし、流転していることが縁となっていたことでしょう。そして、この私が第八識であると唯識は言い当ててきたのです。私=心(チッタ)の表現だと。
 流転の法は、触・作意・受・想・思の五遍行に由って具体化されるわけです。ここが還滅の依り所となるのですね。それ以外に依り所はありません。
 流転が還滅の依り所となり、還滅が流転を明らかにしてくるのです。往相・還相という二廻向の相は、一つの相の二面性であることがはっきりするわけです。第八識の因が一切種子識と云われるのはこういう意味が有るのでしょうね。全ては種子から生み出されてくることだと、ね。
 「謂く、此の第八識有るに由るが故に、執持して一切還滅の法に順ぜる。修行者をして涅槃を証得せしむるを以て。」(『論』第三・十七左)
 ここでね、先には第八識は流転の法に順ぜるといってですね、ここでは還滅の法に順ぜるといっているのです。此れはどのように理解したらいいのでしょうか。
 素朴に考えますと、私は、迷いのままでは終わりたくない、苦しみのままでは終わりたくない、なんでこんな人生を送らなければならないのか、いくら自業自得とはいえ、やっぱり、このままでは不完全燃焼だよ、という思いがあります。
 ここが本当に大切な機縁だと思うんですね。もうどうにもならん、行き場のないやるせなさの中で、その行き場のないやるせなさが、覚りの道に出遇わせてくれるのです。理屈ではありません。迷いが還滅の依り所となるのですね。これが第八識の織りなす世界:なのです。
 僕はね、世間様から言えば落ちこぼれです。迷惑一杯かけて、生きるに値しない者ですわ。いうなれば、破壊者です。ほんまですよ、知っておられる方は「そうや、のうのうとよく生きておれるな」と言われても仕方ないです。
 でも、そんな人生でも、見直すことが出来る時が与えられていたということなんです。救われました。取り返しはききませんよ。過去は戻っては来ませんからね。でもね、声を大に言えます。「今までのことをご縁にして、生きること、命が与えられていることを考えていきましょう。」と。そこでね、断罪されてもいいではありませんか。
             迷い
 第八識(種子) 〈
             還滅
 ここでですね、第八識の所縁は、種子と有根身と処であると云えるわけです。納得です。いうなれば、求めざる得ない存在ということでしょうね。
 第八識と七転識の関係ですが、「由有此識故」(此の識有るに由るが故に)が依り所となっているわけですね。
 『大乗阿毘達磨経』の頌を引用して、第八識の存在論証としているのですが、その時にですね、
 「無始の時よりこのかた界たり、一切の法に於て等しく依たり」(始めと云う時を特定できない、其の時から阿頼耶識の中に蓄えられた種子が依り所となxちうてすべてのものが縁に依って生起してきたのですね。種子が因です。因が縁にふれて、すべての経験の依り所となる、すべてのものは、さまざまな縁に依って現行してくるのですね。種子が因・現行が果になります。しかし、阿頼耶識の作用は「暴流の如し」ですから、果が因となって、阿頼耶識の中に新たな種子を蓄えていくことになります。これが有漏の迷いという循環の方程式になっているんですね。
 つまり第八識が要であると、第六意識ではないんだということなのです。ですから、第八識に二の位があると云われていたんですね。無漏の第八識と有漏の第八識です。浄心と未浄心の問題です。迷いはただ単に無意味に迷っているのではないのですね。私たちは、迷いに意味が見出せないものですから、ストレスを溜めこんでしまうわけです。これが有漏の正体ですね。ここには、大円鏡智という智慧が働いているんです。与えられているのは、自らの目覚めを待っているのでしょう。
 中学時代の恩師がよく言われました。「水辺には連れていくけど、水を飲むのは君たちだ」と。理屈やと思っていたのですが、飲むのか、飲まないのかは自己判断にゆだねられているのですね。ここに介在しているのが「縁」なのですね。「よき人との出遇い」です。善き人との出遇が増上縁になります。そして、道が見えてくるのですね。
 『論』は、さらに論証を進めてまいります。
 第二解
 「又此の頌の中の初句は、此の識の自性無始より恒有(ゴウウ)なるを顕示し、後の三は雑染(ゾウゼン)と清浄との二の法の為に総・別に所依止(ショエジ)と為ることを顕す。」(『論』第三・十八右)
 この第八識は、無始より恒に有ることを明らかにしています。
 『述記』には「初句は此の識は無始より相続せりということを顕す。」と。
 後の三については、
 「後の三は三種の自性が為に所依止と為るということを顕す。」と説明します。
 『論』(第三・十六左)では「後の半は流転と還滅との依持と為る用を顕す」と説明されていましたが、流転は苦・集諦に依り、還滅は滅・道諦に依る、すべては道理に従って動いているのですね。
 振り返ってみますと、自分の人生、自分の思いが通ったことはありません。思うようにならないのが道理なんでしょう。思うようにならんのが人生、人生は一切皆苦であることが明らかになった。そこから何が因であったのかというと、苦しみを造ってきた因は外にではなく自分が自分の思いで作り出してきたんだということですね。それが滅・道諦からのメッセージに他ならないのではないのかと思うのです。
 心の壁の問題かな。外界からのメッセージはあるのでしょう。それを受け取っているのが第八識です。本質(ホンゼツ)です。そのままということです。自然法爾という無覆無記の中に壁を作っている、人それぞれの受け取り方の容量が有ると思いますが、満杯なんですね。一人相撲をしてきるのですね。溢れてきたのが自覚できる怒りでしょう。荒々しいのです。その背景にはストレスを溜めこんでいる蔵が有るということです。これが微細なんですね。正体を見せないんです。それも第八識が持っていて、そこを阿頼耶識と押さえているのでしょう。執蔵という一面ですね。ここでは雑染法として説明をしています。
 三種の自性とは、依他起性・遍計所執性・円成実性です。 
 概略を述べますと、「涅槃証得」について三つの意見が出されているのですが、涅槃は証得したり、証得しなかったりするものではないのです。ここははっきりしておかなければならないことだと思います。ここの主題は証得の依り所を問題としているのですが、間違いますと、涅槃を証得する方法論に陥ってしまいます。
 涅槃は無為法で、無漏種より現行しているものです。
 第八識は有為法であり、涅槃を証得する道を説いているのだと。この道の中に涅槃はあるわけです。
 言い換えれば、お念仏の中に涅槃は有る、念仏して涅槃を得るわけではないのです。そうなりますと、念仏は条件になります。「念仏成仏是真宗」なんです。念仏が=得涅槃ですから、往生成仏は念仏の働きになりますね。これは無為法なのです。無漏種子の中に涅槃は宿っているのです。
 有為法からいいますと、有為法は生死流転します、流転の身が現行しているわけですから、惑・業・苦の繰り返しになります。惑(因)・業(縁)によって生を得た身は苦(果)のみですから、往生成仏は中有以降の未来になります。
 往生成仏は法ですね。法が未来ということは無いわけです。遍満しているもの、それが無為法でしょう。有為法は往生成仏の道を説くということですね。能証の道だけが説かれているということになります。ですから、此の第八識に依って涅槃が有るのではないということになります。
 往生成仏といいますと、私が歩むということになりますが、それは能証の道であってですね、往生成仏は無為自然の世界ですね。「天にあらず人にあらず。みな、自然虚無の身、無極の体を受けたり。」(『無量寿経』)と。有るとか無いとかの話ではないということです。
 結論として、
 「謂く涅槃と云う言は所証の滅を顕す。後の証得と云う言は能得の道を顕す」(『論』第三・十八右)
 つまり、涅槃を我々の問題として提起されているのですね。生死流転の我が身が、いかにして涅槃を証することができるのか?「能断の道に由って所断の惑を断じて究竟して盡きる位を涅槃を証得する」のだと。これはですね、還に由ると云われています。還は道諦です。道諦つまり本願の一人働きですね。
 こういう働きがどこで成り立っているのか、それが第八識に依るのである、と。
 「能断の道も所断の惑も能証の道も所証の滅も皆此の識に依る。故に還・滅が為に依持たる用なり。」(『述記』)と釈されます。
 第二解
 「又此の頌の中の初句は、此の識の自性無始より恒有(ゴウウ)なるを顕示し、後の三は雑染(ゾウゼン)と清浄との二の法の為に総・別に所依止(ショエジ)と為ることを顕す。」(『論』第三・十八右)
を読んでいました。
 後の三句は「雑染(ゾウゼン)と清浄との二の法の為に総・別に所依止(ショエジ)と為ることを顕す。」と。
 ここでは、雑染と清浄の二つの言葉で説明がされています。前は、流転と還滅でした。
 初めに問いが出されています。「何者か染法と云う。」(『述記』)
 「雑染法とは、謂く苦集諦なり。即ち所能趣のの生と及び業と惑となり。」(『論』第三・十八左)
 四聖諦から説明されます。
 「諦」は真理という意味です。明らかにするという意味も含まれています。苦諦ですと、苦があるという事実(苦諦)をいいますが、苦が何故起こってくるのかが明らかになる(集諦)という意味でもあるのですね。
 苦諦が所趣
 集諦が能趣で、「生と及び業と惑」がこれになります。苦を生み出していくのが雑染法だと。四惑(我痴・我見・我慢・我愛)を依り所として苦を生み出していることが明らかにされるのです。
 友との会話面白いですね、「世の中どうにもならん、なるようにしかならない」と明らかにしているのかと思いきや、面白くないと云う自分がいるわけです。これ矛盾するんです。考えられた了解といったらよいのでしょうか。持ち替えですわ。我を立てた判断ですね。それが雑染法と云われているのです。
 「無始時来界 一切法等依」の初句について、『述記』の説明は、「此の識(第八識)の体は今始めて有るに非ず無始より有りということを顕すが故に識の自体を出さば即ち種子識なり。」と。一切は種子識の現行である。種子として蓄えられている時は無記として熏習されている。種子生種子です。善は善として、悪は悪として分別されること無く熏習されるのです。それは何故なのかと、阿頼耶識が無覆無記だからですね。善悪の判断はしなくて、ありのまま、行為そのままを熏習してくるのです。風が吹くと現行します。現行は色が変わるということでしょう。無色のものが、風にあたると有色に変化するわけです。善は善として、悪は悪として現行してきます。これは正直なんです。意識であきらめようと思ってもあきらめられない。喧嘩して仲直りをしても、許せないものがある。寝床に入ると思い出して腹が立つということがあります。悔やんでも悔やんでも悔やみきれない歯がゆさがありますね。意識で解決できるものなら楽なんですが、なかなかそうはいかないのです。この第八識厄介ですね。仏法に出遇うことがなければ楽に生きれたかもしれませんね。えらいもんに釣り上げられたものです。
                  善
 阿頼耶識(無覆無記)〈       〉  現行(有覆無記)
                  悪
 今が大事だと云うでしょう。でもね、今は押さえられないですね。動いていますからね。それを今が大事だとして捕まえようとするわけです。これが我ですね。我は種子として隠れているんです。
そして、「清浄法について」の説明が大切なことを教えてくれます。
 「清浄の法と云うは、謂く滅・道諦なり。即ち所・能証の涅槃と及び道となり。」(『論』第三・十八左)
 清浄の法は、四聖諦の滅諦と道諦である。滅諦は所証であり、道諦は能証である。涅槃は証せられるところ、道は至らしめるものである。
 いうなれば、苦悩があるから滅・道諦は輝くわけです。苦悩の背景に滅・道諦ありです。涅槃においてあるもの、それが苦悩の人生なのでしょうね。
「自分で自分を斬ったら自分が可哀想。斬る自分と斬られる自分。斬る自分はエゴ、斬られる自分が本来の自分。自分を大切にしましょう。でも、自分を大切にと云うのもエゴですね。エゴから抜け出せんということでしょう。エゴを知る、これが真宗の仏道だと思いますね。」
 雑染法と清浄法は何に依って有るのか、それが答えられてきます。
 「彼の二は皆此の識に依って有り。転識等に依たりと云うは理成ぜ不るが故に。」(論』第三・十八左)
 雑染法と清浄法の二は、此の第八識を依り所として起こってくる。
 転識は無始より現在まで間断することなく相続しているわけではなく断絶があるので、雑染・清浄法の依り所とはならないのである。つまり、転識では涅槃の証得はなく、又生死に流転することも出来ないのです。転識も第八識を依り所として生起する所の識だからですね。
 第八識は恒に一類相続して雑染法(流転の法。苦諦・集諦)と、
  生は所趣の苦諦であり、生をもたらすものが能趣の集諦になるわけです。具体的には惑と業です。惑と業によって趣である「苦なり」の生があるのですね。生まれたということは、惑・業を因として生が果になるのですから、因は種子でしょう。迷いの種子(有漏種子)から迷いの生をうけたのです。第八識は唯それだけの用ではないということです。
 清浄法(還滅の法。滅諦・道諦)との所依となる、このことを明らかにしているのです。
  所証は涅槃、能証は道である。ここは先の説明の通りでありまして、能証の他に所証はないということです。
 以上が第二解になります。
 第三解は、
 「或は復た初の句は此の識の体無始より相続せりと云うことを顕し、後の三は三種の自性の為に所依止と為るを顕す。」(『論』第三・十八左)
 「無始時来界」(第一句)は、此の第八識は無始より現在まで間断することなく相続して、一切の現行の依と為る種子を貯蔵して、心を支えつづけていることを明らかにしているのです。
 そして後の三は、
 「一切法等依 由此有諸趣 及涅槃証得」は三種の自性という教えの為の依り所となることを明らかにしています。
 三種の自性は、三性ですね。
 一つは、依他起性
 一つは、遍計所執性   } 三種の自性(三自性・三性)
 一つは、円成実性
 迷いと覚りの依り所と成る、それが第八識だと。
真宗でいいますと、法蔵菩薩ですね。法蔵菩薩を依り所として、迷いと覚りが有る、成り立っていると云った方がいいのかもしれません。目に見えるものではなく、つまみだすこともできませんが法性の具体性でしょうか。
 「謂く、依他起と遍計所執と円成実性となり。次の如く応に知るべし。」(『論』第三・十八左)
「如次応知」は、本頌ですと、第二十頌・第二十一頌になります。そこでは三自性について詳細が語られています。
 多川俊英師の現代語訳が素晴らしいので引用させていただきますと、(角川ソフィア文庫所蔵 『唯識とは何か』p35~37)
「ところで、私たちは一体、どのような世界に住んでいるのでしょうか。このことを改めて考えてみたいと思います。私たちはそこまで鉄面皮でもありませんから、さすがに完ぺきとはいえませんが、それでもまあ、それないに真っ当な判断にもとづいて生活している。つまり。、ほどほどに清く正しい世界にすんでいる。―――と、臆面もなく思っているわけです。
しかし、すでにみてきたように、私たちの分別(認識)は、八識のそれぞれが変化・展開して、分別するものと分別されるものという二つの領域に分かれることによって成立するものでした。そうした唯識の知見にもとづくならば、私たちの認識というのはどうやら、なんらものごとの実像を捉えるのでも、また、あるものをあるがままにみているのでもなさそうだ、と気づかざるを得ません。 
そこでまず、私たちの日常世界とはどういうものなのか、それを端的に示すことにしましょう。そしてつぎに、一般的にみて、世界というものはどのようにして成り立っているのかをかくにんし、さいごに、私たちが真に求めるべき理想の、というか、あるがままの世界について考えてみたいと思います。
はじめに、私たち一人ひとりの日常世界ですが、その要点といえば、その時々のさまざまな思い計らいをからませて成り立っています。しかもそればかりか、その目の前の状況が好都合ならば貪り、不都合ならば毛嫌いするという執着の構図を重ねる念の入れようです。これを遍計所有執というのですが、そういう生活現場が、さも自分の認識している通りに展開している、とも思っています。が、そんな世界は自分の思い計らいや執着によって演出されたものにすぎず、実はどこにもないのです。(第二十頌の現代語訳)
「謂く依他起と遍計所執と円成実性とぞ。次の如く応に知るべし。」(『論』第三・十八左)
依他起は後の三句の初句、つまり第二句「一切法等依」(一切の法において等しく依たり)を釈しています。依他起は有漏・無漏の有為法をいいます。無為法は真如ですから依他起ではありません。全ての事柄、現象は他に依って起きる。因縁ですね。有為法は有漏であれ、無漏であれ、因縁で生じているのです。
思い起こしますと、浄琳寺の若院が「唯識聞きにいこ」とお誘いをかけて頂いておらなかったなら、唯識に触れることはなかったでしょうね。様々なご縁をいただいているのですが、不思議としかいいようがありません。でもずっと一貫して学ばせていただいていたのかと云いますと、違うのです。ごめんなさいね、「仏教なんて」といって一旦はごみ箱に捨てたんです。捨てたつもりだったんですね。ある日なにか日常の生活に物足らなさを感じていた時に、たまたま中日新聞の宗教欄に法話会があるのを見たんです。何故か足が動きまして、碧南まで聴聞にいかせていただきました。そして東別院の聖典講座にも顔を出すようになり、そこで、あるご婦人からお声かけをいただき、鶴田君を知ることになったんです。そうしましたら、なんと『唯識三十頌』を読むといわれたんですね。うわあ、めちゃ懐かしいと思ってですね、鶴田君の唯識を聴くことになりました。それがずっと続いていくことになるのですが、不思議ですね。そこからいろんなご縁をいただいて有難いとしかいいようがありません。このことが依他起なんでしょう。依他起よって今の私がある、その頷きが円成実、円満に完成した真実だと思いますね。
 有為法は、「諸法の種を含蔵するが故に説いて所依とす。」(『述記』)と。有為法は種子を所依として生起する、これを依他起性と云う。
 次に、遍計所執について考えます。能・所・執の執蔵に関係する事柄ですね。
 遍計所執性
 計は計度(ケタク)。計らいです。何を計らうのかといいますと、偏に自分の思いに固執することですね。執は執着のことですが、依他起の固定化です。動いているのを止めてしまうことが執着の本質です。つめまり、縁起を無視したあり方ですね。
 「遍計所執とは即ち第三の句なり。「此れに由って諸趣有り」。謂く執を起こすが故に諸趣遂に有り。彼の趣を生ずるを以てなり。或は諸趣を縁じて而も執(遍計所執)を起こす。此れ(五趣)は彼(遍計所執)に由って起こる。故に是れ彼が性なり。或は趣とは此れ見趣なり。二執(我執・法執)を起こすが故に。」(『述記』(第四本・十四右)
 『述記』の説明の通りです。簡潔に説いています。
 執を起こしたから趣があるということでしょう。人間の身をいただいたのは、執を起こしたからですね。ですから悪趣です。悪趣としての果報を得たのですが、種子が執ですから趣がまた執を起こすのです。これが生死流転なんですね。しかし、本願に出遇えば「悪趣自然閉」。生まれたことの醍醐味でしょう。
 先日も講義の中でお話をさせていただいたのですが、止める、固定化するとですね、わかりやすくいえば堰です。人工的に堰をつくりますと、そこにはヘドロが山積されます。ヘドロ、これが所謂煩悩です。溢れるということもあるのでしょうが、溢れるのはあらあらしい煩悩ですね。細やかな煩悩は沈殿します。そして煩悩は身に纏いついているのです。すべて固定化の問題、遍計所執です。遍計所執によって生死流転していくのですね。依他起に還れば、そこは円成実の世界なんです。理屈ではこうなるんです。このようにいかないところに、人間としての営みの面白さが有るのかも知れません。
 事実は依他起、固定化が執、目覚めが円成実。
 「本願を信じ念仏すれば仏になる」、これは依他起で、無私の法悦が円成実なのでしょう。そして、いつでもどこでも固定化を破っていく働きを持っているのが事実としての依他起ですね。
 大胆に言い放ちますと、依他起が還相の働きをもっているのかも知れません。身の事実、そこに還れと。
 依他起は事実を言っているわけですから、還れということはおかしいのです。還の痛みですね。本国を見失っている者への痛み、大悲といっていいのでしょうか。事実は、事実を見失ったら働きを具現化するのでしょう。そのように思えてなりません。これが第八識所縁の問いかけになります。
 「我が身が問われている」のは所縁からの問いかけだと思いますね。所縁に反逆している「思い」(遍計所執)に対して、所縁に還れと問いを発しているのですね。
  円成実性とは、
 円成実性は言葉としては仮に語られますが、依他起の自覚が円成実性なんですね。目覚めであり、頷きです。
 お念仏に依って生かされている身の頷きが、本願を証明するのでしょう。それ以外に本願の働きは有りませんね。身が頷かないで、本願を語っても、それは形而上学でしかありません。頷いたら、「すでにしてあった」ということでしょう。それが本願成就ですね。
 「生かされている」という頷きが依他起の世界でしょう。「生きている」のが遍計所執になりますね。
 「生かされている」という頷きが、種子として宿る。=有為無漏 → 涅槃証得
 「生きている」という思いが種子として宿る。=有為有漏 → 生死流転
 という構図になると思います。いのちは恒に種子を所縁として動いているのです。

 「円成実性とは是れ第四句の「及び涅槃と証得と」なりと云う。即ち無漏法の有為と無為となり。四清浄の法を円成実性と為すなり。涅槃と証得とを各別に説くが故に。」(『述記』)
 四清浄は、『雑集論』(大正31・691)では、依止清浄・境界清浄・心清浄・智清浄を挙げています。如来の一切種清浄を表しています。
 つまり、
            染
 阿頼耶識は  〈      の依  (『無性摂論』巻第一) である。
            浄 

 一切諸法の種子である識は阿頼耶識であって、阿頼耶識の種子より現行が生起するわけです。その時に、染の種子が現行するのか、浄の種子が現行するのかが修道の問題になってくるのでしょう。
 そこで、阿頼耶識の所縁は種子、所依は末那識ですね。種子が因として、現行が縁となり種子を熏ずるわけです。そこで問題となるのは所依です。因縁依(種子依)・倶有依(増上縁依)の問題です。
 今回はここまでにしておきます。
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