唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

唯識入門」第六回目講義概要 (5) 分別起の我執について

2013-04-27 00:04:34 | 唯識入門

 分別起の我執について述べられます。<o:p></o:p>

 

 倶生起に対して今度は分別起の我執についてです。<o:p></o:p>

 

 「分別の我執は亦現在の外縁の力にも由るが故に、身と倶にしも非ず。要ず邪教と及び邪との分別を待って然して後に方に起こるが故に分別と名づく」<o:p></o:p>

 

分別の我執は、「亦」といわれていますように、虚妄熏習の内因力と、現在の外縁の力にも由るのである、と。内因力の種子と邪教等の外縁との二縁に由って生起するということなのです。『述記』には「内縁には必ず籍る。兼ねては外縁にも籍る。故に外縁に於て亦の字を説く」と説明されています。<o:p></o:p>

 

 内因とは、阿頼耶識の中の種子を内的な原因で内縁といい、それより他の外的な原因を外縁といいます。そして「内的な因(自の種子)と(現在の)外縁とより生じるが故に縁生と名づく」、因を縁起、果を縁生と分けられて説かれていますが、生まれるということは、自の業種子と父母を縁として生まれてきたということなのです。生まれながらにして外縁を待ってということが分別が起こるということは必然なのです。<o:p></o:p>

 

倶生起の我執は、「身と倶」といわれていましたが、分別起の我執は「身と倶にしも非ず」といわれて、倶生に異なることを顕しています。<o:p></o:p>

 

「要ず」以下は分別の義を顕しています。「分別」は、邪教の分別と邪思惟の分別という後天的な分別を待って起こる、これが分別起の我執である、と。<o:p></o:p>

 

邪教とは、仏教以外の諸思想の説なのですが、どうでしょうか、仏教以外ですから、西洋の諸思想や古代ギリシャの思想も含まれますし、古代インドのバラモンの思想も当然含まれています。それて邪分別ですから、自我意識に色づけされた自分の考えですね、これを邪分別といわれています。大まかに言えば、無我ではなく、有我を立てた思想全般ということになります。これは次に、「唯だ第六意識の中のみに有ること在り」と説かれています。<o:p></o:p>

 分別起の我執は、唯だ第六意識のみに存する有間断にして麤猛のものである、ということです。これは執の所在を明らかにしています。「間断なり、麤猛なり、故に此の執有り」と。(『述記』第一末・十五右)<o:p></o:p>

 

 そして第六意識以外の諸識は、浅であり、浅は前五識・第八識を指し、細(第七識)なり、及び相続(第八識)するから、横計(おうけ)という、間違って考えるという邪分別を起こすことは無い。邪分別は必ず間断し麤猛である。第八識は浅にして間ではない、前五識は間では有るが浅である。第七識は倶に無い、従って分別起この我執は第六意識のみに在る我執である。<o:p></o:p>

 分別起の二種の我執について「此に亦二種あり。 一には邪教に説く所の蘊の相を縁じて、自心の相を起こし、分別し計度して、執して、実我と為す。 二には邪教に説く所の我の相を縁じて、自心の相を起こし、分別し計度して、執して実我と為す」<o:p></o:p>

 と二種の分別起の我執が述べられています。<o:p></o:p>

 一は、即蘊の我、これは前回述べました。五蘊そのものが我であると分別し、計度して実の我であると執着しているのです。<o:p></o:p>

 二は、離蘊の我です。<o:p></o:p>

 我と五蘊の関係から、我の三種を説く。(前回)<o:p></o:p>

 即蘊 - 身と心とがそのまま我であるとする説。
 離蘊 - 五蘊を離れて独立して有るとする説。
 非即非離蘊 - 五蘊に即するものでもなく、離れるものでもないとする説。<o:p></o:p>

 先ず、即蘊の我を破す。<o:p></o:p>

 我が五蘊に即するというのであれば、五蘊と同じく常・一ではないであろう、と。我とは常・一の義といわれていますから、五蘊もまた常・一でなければならないのです。しかし、五蘊は積集の性(仮和合)と言われていますから、無常です。無常をもって常・一の我とはいえないということです。「又」と、五蘊それぞれについて論じられます。<o:p></o:p>

 

 「内(うち)の諸色」(肉体・五根と扶塵根)も「外の諸色」(外の物質)のように、質礙(ぜつげ)<o:p></o:p>

 

 質礙(ぜつげ)― 物質(色)が有する二つの性質(変壊と質礙)の一つ。物のさまたげる性質。同一空間・場所を共有することができないこと。同一空間・場所を共有することをさまたげるものは、我ではない、ということ。 尚、変壊は、事物・事象が変化して壊れること。苦が生じる因となる。「心」は心王・識。「心所法」は受・想・行 (余の四蘊)<o:p></o:p>

 

 これも亦た、実我ではない、なぜなら、余の四蘊は衆縁(さまざまな縁)をまって生ずるから、相続しませんし、断絶がありますから、我とはいえないですね。<o:p></o:p>

 

 「余の行」 諸行無常の行、有為法のことをいっています。最初の二つ以外の有為法(心不相応行法)と、「余の色」、外の諸色と法処所摂の色(五根と五境)五根は眼・耳・鼻・舌・身とその対象、色・声・香・味・触、それに意識の対象となる特別なもの、意識の所縁の色を法処所摂色といわれています。意識の対象となる特別の物質。、「第六識の無辺法界の事をしる中に有る色法なり」(『二巻抄』)法処とは意識の対象となる法という領域で、五識の対象とはなりえない、ただ意識の対象となるもの、という意味です。これらが、「覚の性に非ざるが故に」、覚性とは、心・心所のことで、「非」ですから、心・心所とは別なもの、たとえば虚空のようなもので、これを我というわけにはいかない。<o:p></o:p>

 

 次に、離蘊の我を破す。<o:p></o:p>

 

 五蘊に即するのでもなく、離れるのでもなく、というのであれば、我とはいえない、「瓶等の如く」とは仮法ですから、仮法をもって我とすることはできない。<o:p></o:p>

 

 故に彼が所執の実我は成ぜず」と。成り立たない。と説かれていましたが、そのような自心の相を起こして、分別し計度して実我と執しているのが分別起の我執ななおです。計度は簡単にいいますと、自分の損得勘定ですね、自分にとって、損か得かの判断を刀として分別していることなのです。しかし、この分別起の我執の行相は麤である、麤とはあらいこと、細という、微細のような目にみえないものではなく、麤猛という荒々しいものですから、断じ易いといわれます。見道に於いてその種子を断ずることが出来るのである。<o:p></o:p>

 

「此の二の我執は麤なるが故に断じ易し。初の見道の時に、一切の法の生空真如を観じて、即ち能く徐滅す」と説かれています。<o:p></o:p>

 

 次に、我執の所依である疎所縁(本質)について述べられますが、ここは次回に譲ります。<o:p></o:p>

 

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