唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (9)

2017-01-25 22:06:34 | 阿頼耶識の存在論証
  

  本科段は、『論』巻第三の第五段三性分別門を受けて説かれています。(『新導』本p101.『選注』本p48)
少し振れかえりますと、『論』の記述は、
 
 「下、第五の段は即ち是れ第八に何れの性とか倶なりと云う門なり。」(『述記』)と、問いが設けられまして、
 第五 三性分別門が説かれてきます。
 「法に四種有り。謂く、善と不善と有覆無記と無覆無記となり。阿頼耶識をば何の法にか摂むるや。」(『論』第三・五右)
 「此の識は唯だ是れ無覆無記なり。異熟性なるが故に。」(『論』第三・五右)
 第一の因(理由)
 「異熟いい若し是れ善と染汚とならば、流転と還滅と成ずることを得ざるべし。」(『論』第三・五右) 第二の因
 「又た此の識は是れ善と染との依なるが故に、若し善と染とならば互に相い違へるが故に、二が與に倶に所依と作らざる応し。」(『論』第三・五右)
 第三の因
 「又此の識は是れ所熏性なるが故に、若し善と染とならば、極めて香と臭との如く、熏を受けざるべし。」(『論』第三・五右)
 
 本科段の初は「趣」について述べられていますが、ここも、因果法喩門を見ていただきますと、私たちは、何を以て、何の所に趣いていくのかが解き明かされています。(『新導』本p104.『選注』本p49)
「謂く此の識は無始の時よりこのかた、一類相続して常に間段すること無く、是れ界と趣と生とを施設する本なるが故に」(『論』第三・七左)
 ここは、趣の説明がされていますが、
 自らの行為が、自らの結果を引き出してきたということなのですね。私にとっては、人間として生をうけたということが大切なことなのです。ここから、第八識の存在論証が述べられます。
 善悪業の結果として人間として生まれた。それは善悪業果位としての異熟。無覆無記としての存在、そこに、流転と還滅の法が説かれてくるのですね。
  また明日にします。おやすみなさい。

  尚、三性分別門の詳細は、2015.10/23~11/4に述べています。参考にしてください
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