唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

釈尊伝 (98) ・ 仏陀の弟子たち

2010-09-08 22:54:23 | 生きることの意味

     釈尊伝 (98) 仏陀の弟子たち その(3) 

           - 舎利弗・目連 -

 それから、二百五十人というのは、これは舎利弗と目連の弟子であります。舎利弗・目連はその師が亡くなり、この次の師とすべき人をみつけたならば、お互いに知らせあおうと約束しておったわけであります。ある時、一人の出家に出逢い、その出家の姿があまりにもすがすがしいので、“汝の師は誰であるか”と聞いたら、その出家が、自分の師は仏陀であると。つまりゴータマ・ブッダであるといったというのです。で、どういう教えかと聞いたときに、その出家は、自分も十分に説明できないけれどもといって、説いたのが“諸法は因縁より生ずる”という言葉であった。それを聞いて舎利弗が、この言葉には真理があるとさとって、仏陀をたずねて弟子になったと。それから約束通り目連に知らせて、目連もまた弟子になったと。そしてともに師匠からあずかられていた二百五十人の弟子とともに比丘になったというのです。

 そういう意味がありまして、当時、この二人は若手の天才といわれ、若いけれども行く末はどれほど有名な大論師になるかわからないといわれており、若くて名声の高かったのが、この舎利弗と目連であったわけです。それが釈尊の弟子になったというので、釈尊の名が世の中に一時に知られるようになったというわけです。こういう意味が語られております。

           - 経典の形式 -

 したがって、仏陀の教えを聞くというときには、他の阿含の経典など、その他いろいろありますが、中阿含経あたりの整理されたお経になりますと、こういう千二百五十人の比丘とともにあったというような形式になってまいります。これは経典というものが単に人間の自由のため、幸福のための教えという意味に解釈されやすいことに対する、一つの特異な形式といって良いかと考えられます。つまり、南伝の経典によれば、ともすると、このもろびとの利益・安楽という言葉、あるいはあわれみということが、普通に考えられるところの利益・安楽・あわれみにすりかえられるのであります。貧しい者があれば、その貧しい者を救す、それに対して精神をもって助けるというだけでは、人間は助からない。パンのみにして食うにあらずというだけではダメなのだというふうにすりかえられてゆく、そういうことになりやすい。そういうものでないのだとさえぎってきたものは、世俗の欲望を断ち切って一生を過ごす。すなわち出家としての生活のみであった。これが小乗経典の特色であります。次回は「阿含の意義」についてです。 (つづく) 『仏陀 釈尊伝』 蓬茨祖運述より 


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