唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (34)

2017-03-07 22:06:43 | 阿頼耶識の存在論証
  
 今回は、下四句の「勝者我開示」について学びます。
 『述記』は「入地の菩薩を勝者と為す。」と説明しています。
 入地の菩薩は、唯識に契い、よく阿頼耶識を証解(ショウゲ・さとり理解すること。)し、誹謗と分別の我と執とを生じないと云われています。十地の見道通達位に入っている菩薩にのみに真実を話すのだと、こう仏陀は言われるのです。
 正法を誹謗しない。(我見に立たない)
 自分を立てない。(分別を起さない)
 自分に固執しない。(自分に執着を起さない)
 ここから見えてくるのが、我見に立ち(我見を依りところとする)、自他分別を起し、起こした自分に執着をして他を排除する「私」であるということですね。仏道を求めていても、地前の菩薩です。ここは、非常に厳しいことを伝えておられます。地前の菩薩に開示すると間違いを起こす。凡夫ならなおさらですね。持ち替えるのです、刃にする。自己を問うことなく、仏法を戦の道具にしてしまうのです。自己を問わない怖さです。
 「已に見道に入れる諸の菩薩衆を真現観を得るを以て名けて勝者と為す。彼能く阿頼耶識を証解するが故に我が世尊正しく為に開示すとのたまう。」(『論』第三・十九右)
 見道通達位は、無漏智と無分別智によつて真理を証する位です。
 見道に入って、初めて空を正智するわけですから、それ以前は言葉を弄んでいる段階と云えましょうね。考えられたものなんです。だから誤解を生ずるのですね。
 真現観ですが、真は真理、現は、そのまま。観は観察。真理をそのまま観察することを得る菩薩さまです。空を会得した菩薩、その菩薩を以て勝者と為すということなのです。
 一つは、空を会得する。もう一つは、阿頼耶識を証解すること。無覆無記である阿頼耶識を知るということです。その段階が見道なんですね。
 真宗では見道とは言いませんが、信心は見道に匹敵するのしょう。見道から修道へという歩みと同じように、信心も歩みがあるのでしょう。信心が信心自体を証解してくるのですね。無上覚をえる歩みになるのでしょう。
 今在る自己を証解する。「これでよかったんだと」いえるのが無漏の阿頼耶識に出遇った証拠になる。「今が無い生活をしていませんか」という問いが投げられている。どう答えたらいいのでしょうか。
 もう少し考えます。

 
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