唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

『雑感』 身と心について

2014-12-22 21:19:35 | 雑感
 身と心の問題ですが、身と心は一つのものか、異なるものかという問いがあるのではないかと思います。身が病むと心も病む。或は心が病むと身もまた病むということが云われます。つい最近ですが、職場で二人の職人さんが倒れられました。お一人は脳梗塞、お一人は肝硬変でした。病に侵されますと、病に負けてしまって心も落ち込んでいかれるんですね。一般的にはこういう意見が通るのかもしれません。しかし、先日友人が介護のお仕事をしていかれる中でお聞きした話なのですが、車いすの生活を余儀なくされている青年の介護を担当することになりました。その青年は、車いすという不自由な我が身をいただいてですね、心は自由に開かれている。どうしてそんな人生を送ることが出来るのか。ものすごく勉強になります、とお聞きしました。私の知り合いにも、余命何か月と云う死の宣告をされた方がおいでになりました。それはある日突然のことで、体が変調をきたしていたので、かかりつけの医者にいくとですね、すぐさま救急搬送され、その結果、末期の膵臓がんだったんです。本人は荒れ狂いました。「どうして俺が。何も悪いことをしていないし、家庭孝行もしてきたつもりやのに」と。つまり身が侵されて、心が沈んでしまったのですね。しかし彼も少しは真宗に触れておられましたので、毎日毎日『歎異抄』を黙読されて、面会にいくとですね。「君はどれくらい生きれるか知っているか」と聞くんです。「それはわからん」と答えますと、「僕は後三ヶ月かな、終着駅がはっきりしてるんや。ええやろ。何も知らんと死んでいくのと違うんや。俺な、病魔に侵されへんかったら、命の尊さなんか考えること無かったやろなと思うねん。なんかわからんけどな、癌をいただいて自分に遇うた気がする。」、このような会話のあと、静かに息を引き取っていかれました。彼は身は癌に侵されながら、心は自由に、おおらかに、命の尊さを教えてくれた我が身に手を合わせて亡くなっていかれたんです。僕はね、身と心の受ける感覚はどこかで違うのではないかと思うんです。身はどんな時でも、すべてを引き受けているのではないですか。心は違いますね。心は意識に左右されています。第六意識の分別力によってですね。お寺で法話を聞いている最中でもですね、身はちゃんと座っているんですが、心は飛び跳ねています。足が痛いなどうしよう。終わったらどこへ飲みに行こう、早く終わらんかな等々です。ですから、身が病むといいますが、身が病むことはないのではないですか。心がですね、身が病んでいると思い込んでいるのではないでしょうか。身は無常を生きているんでしょう。逆らわずにね。諸行無常・諸法無我を生きている存在が身ではないでしょうか。身において心が問われてくる、問われていると思うんです。
 先程、受ける感覚と云いましたが、受は五遍行の一つの心所です。「受の心所と云うは、楽をも倶をも、心の中の憂い悦びをも、いずれにもあらざる心に受け取る心なり」(「受と謂く、順と違と倶非との境の相を領納するを以て性と為し、愛を起こすを以て業と為す。」)という心の働きをいいます。識が起ると必ずついてくる心の作用です。感覚、苦しいとか楽しいなどを感ずる心作用なのですが、ここに深い意味があるのですね。身で受ける作用は五識相応であると云われ、心で受ける作用は意識相応と云われている点です。これは三受が五受に展開されて、身受(ミジュ)と心受(シンジュ)に分けて、それぞれの受ける感情は違うことを明らかにしていることですね。苦受と楽受は五識相応の身受であるということと、憂受と喜受は意識相応の心受であるという点ですね。苦受・楽受というのは五感覚器官に伴って働く身体的な感受作用なんです。善因楽果・悪因苦果という時の身体的感受作用と同じですね。しかし、憂受と喜受は精神的な感受作用なんです。意識で分別をするという点が身受とおおきく異なります。身は五識相応ですから現量ですね。しかし心受は第六意識相応ですから現量にも比量にも非量にも通じます。身はすべてを引き受けて私という存在を成り立たせているんですね。それを意識が翻弄して、恰も心が病むと身が病むと。身が病むという思い込みが心が病むんだと思いたいんですね。これも第六意識の働きになるんですね。ここの気づきが大切であろうと思います。
 「五識相応の苦受は、後得智の大悲力に従う。親しく引生せざるが故に無漏に通ずと云う」。心して聞いておかなければと思います。尚、五受につきましては2014年8月の投稿で解説をしております。参考にしていただければ幸いです。
 
 教証を挙げておきます。 
 
 身受と心受について『了義燈』の解釈。

 「又身心受。何故五倶名爲身受。第六識倶名爲心受答有二解。一云身者積聚義。五種色根皆積聚。依彼五根皆名身 二云身者唯屬身根。餘四依身相從名身。故能依受得名身受 難五識別依根。相應之受得身名。第六別依意。相應之受標意稱 答五根皆積聚受。從所依得名身。對色辨於心。第六相應非意受 問色心以相對六不同。五名身受。身・眼兩相望。眼不齊身立身受答身・眼倶色並得名身。對色・心殊六名心受 又受依於身即名身受。受依於意應名意受 且質答云。六受依於意。依意名意受。五受依眼等。應名眼等受。據門明別。身・心相對名身心受。不可齊責。」(『了義燈』第五本・二十四左。大正43・751a20~751b05)
 
(「身と心と受」に於て、何が故か、五と倶なるを名づけて身受と為す。第六識と倶なるを名づけて心受と為るや。答う、二の解有り。一に云く、身と云うは積聚(しゃくじゅ)の義なり。五種の色根は皆積聚なり。(「積聚の義は是れ蘊の義なり」)彼の五根に依って皆身と名づく。二に云く、身と云うは唯、身根のみに属す。余の四は身に依るを以て相従して身と名づく。故に、能依の受を身受と名づくることを得。
 難ずらく、五識は別に根に依る。相応の受は身の名を得ば、第六と別に意に依る。相応の受は意の称を標すべし。
 答う、五根は皆、積聚せり。受を所依に従えて身と名づくることを得る。色(身受)に対して心を弁ず。第六と相応するは意受に非ず。
 問、色と心と相対して六不同を以て、五は身受と名づく。身と眼と兩つ相望して眼をば身に斉しくせず。身受とは立てず。
 答、身と眼とは倶に色なるを以て、並びに身と名づくることを得る。
 色と心と対するに殊なるを以て、六を心受と名づく。
 又、受が身に依るを即ち身受と名づけば、受が意に依るを以て意受と名づくべし。
 且く質答して云く、六の受は意に依る。意に依るを意受と名づけば、五の受は眼等に依る、眼等の受と名づくべし。門を明すこと別なるに拠って身心相対して身心の受と名づく、斉しく責むべからず。」)。

 「論。又三皆通至無漏引故 述曰。一云若憂根・苦根皆能引無漏。無漏所引皆通無漏。受寛根狹。故論説苦受通無漏 一云五根中。唯以苦根於學・無學身中。無漏第六意引生故。或唯後得智中。方起五識精進等故。有苦根假名無漏。然五十七説是無漏。何以知者。彼漏・無漏門作是説故。此苦雖然憂非無漏。雖亦能爲無漏加行。仍爲未知欲知根性。非無漏引生。不倶起故。非無漏攝。」(『述記』第五末・八十左)

 (「述して曰く、一に云く、若し憂根・苦根、皆能く無漏を引く。無漏に引かれるをもって皆無漏に通ず。受は寛く根は狭し。故に論(『瑜伽論』巻五十七)には苦受は無漏に通ずとのみ説けり。ニに云く、五根の中に唯苦根の学・無学の身中に於いて、無漏の第六の意に引生せられるを以っての故に。或いは唯後得智の中に方に五識の精進等を起す。故に苦根を假りて無漏と名づくこと有り。然るに五十七に是れ無漏と説けり。何を以ってか知るならば、彼の漏・無漏門に是の説を作すが故なり。此れ苦は然りと雖も(無漏は)憂は無漏に非ず。亦能く無漏の加行と為すをもって、仍ほ未知欲知根の性と為すと雖も、無漏に引生せられたるに非ず。倶起せざるが故に無漏に摂するに非ず」。)
「五識相応の苦受は、後得智の大悲力に従う。親しく引生せざるが故に無漏に通ずと云う」(『了義燈』)と。
 

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