遍計所執性
計は計度(ケタク)。計らいです。何を計らうのかといいますと、偏に自分の思いに固執することですね。執は執着のことですが、依他起の固定化です。動いているのを止めてしまうことが執着の本質です。つめまり、縁起を無視したあり方ですね。
「遍計所執とは即ち第三の句なり。「此れに由って諸趣有り」。謂く執を起こすが故に諸趣遂に有り。彼の趣を生ずるを以てなり。或は諸趣を縁じて而も執(遍計所執)を起こす。此れ(五趣)は彼(遍計所執)に由って起こる。故に是れ彼が性なり。或は趣とは此れ見趣なり。二執(我執・法執)を起こすが故に。」(『述記』(第四本・十四右)
『述記』の説明の通りです。簡潔に説いています。
執を起こしたから趣があるということでしょう。人間の身をいただいたのは、執を起こしたからですね。ですから悪趣です。悪趣としての果報を得たのですが、種子が執ですから趣がまた執を起こすのです。これが生死流転なんですね。しかし、本願に出遇えば「悪趣自然閉」。生まれたことの醍醐味でしょう。
先日も講義の中でお話をさせていただいたのですが、止める、固定化するとですね、わかりやすくいえば堰です。人工的に堰をつくりますと、そこにはヘドロが山積されます。ヘドロ、これが所謂煩悩です。溢れるということもあるのでしょうが、溢れるのはあらあらしい煩悩ですね。細やかな煩悩は沈殿します。そして煩悩は身に纏いついているのです。すべて固定化の問題、遍計所執です。遍計所執によって生死流転していくのですね。依他起に還れば、そこは円成実の世界なんです。理屈ではこうなるんです。このようにいかないところに、人間としての営みの面白さが有るのかも知れません。
事実は依他起、固定化が執、目覚めが円成実。
「本願を信じ念仏すれば仏になる」、これは依他起で、無私の法悦が円成実なのでしょう。そして、いつでもどこでも固定化を破っていく働きを持っているのが事実としての依他起ですね。
大胆に言い放ちますと、依他起が還相の働きをもっているのかも知れません。身の事実、そこに還れと。
依他起は事実を言っているわけですから、還れということはおかしいのです。還の痛みですね。本国を見失っている者への痛み、大悲といっていいのでしょうか。事実は、事実を見失ったら働きを具現化するのでしょう。そのように思えてなりません。これが第八識所縁の問いかけになります。
「我が身が問われている」のは所縁からの問いかけだと思いますね。所縁に反逆している「思い」(遍計所執)に対して、所縁に還れと問いを発しているのですね。