唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (11)

2017-01-29 18:56:08 | 阿頼耶識の存在論証


 前回の投稿で、梶原先生より二点ご指摘がありました。ご指摘については真摯に受け止め、真仏土は「大悲の誓願に酬報するがゆえに、真の報仏土と曰うなり」(『真仏土巻』)と明らかにしてくださいました宗祖の視点は、その用に有ると思います。
 ここに釈迦・弥陀二尊の教説が具体性をもって語られている、其の場所が化土と云われている娑婆世界(堪忍土)、娑婆世界と云う目覚めが(目覚めて見れば。すでにして開かれてあった)「ここをもって釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して郡生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまう。すでにして悲願います。」(『化身土巻)という、娑婆世界は「化される場所」として意味を持つことを明らかにしてくださったと思うことです。
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 「惑と業と生と皆是れ流転なりと雖も、而も趣は是れ果として勝るが故偏に説けり。」(『論』第三・十七左)
 「惑と業と生との有漏の集・苦は皆是れ流転なり。皆生死の法なりと雖も、然も五趣是れ生死の苦果にして勝れたるが故に偏に説けり。果は正しく生死なり、是れ所順の法なり。業と惑とは能く生死の果に順ぜる性なり。故に偏に果を挙ぐ。」(『述記』第四本・八左)
 本科段は問をうけて答えています。
 有漏の苦・集はすべて流転というべきだろう。頌(『大乗阿毘達磨経』)の中では何故諸趣のみを流転の法と説いているのか、ですね。
 五趣である境涯が、流転なのだということなんですね。
 「惑」は無常である自分が受けてれないということですね。僕は僕自身は有ると思っています。いくら無我だと云われても、無我になりきれません。言葉を変えれば「空」ですね。縁起的存在ということでしょう。
 なにかしらですよ、動きは「空」だと思うんです。そこに解釈をしている自分が居る、後からですね、そこで縛られているのではないのかなと。「空」という仮説されたものは、一瞬の動きの中で表現されているのではないですか。僕は、意識を介在して自分は動いているように思っているんですが、そうではありませんね。無意識の中でデーター化されたシグナルが意識を動かしているのではないですか。
 現在している(現行)のは果ですね。因が種子です。因である種子が五趣という果を引生してくるのですね。五趣という生き様は、人として地獄の生き方、餓鬼の生き方、畜生の生き方をしている、どこでかというと、「今、現に」ですね。そういう揺さぶりが種子から生まれてきている。だから、今どのような種子を心に植え付けていくのかが問題とされるのでしょう。
 すべては第八識の中に蓄えられた種子が生起の因となることを論証していると思うのです。
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