唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (38)

2017-03-19 13:10:44 | 阿頼耶識の存在論証
 
 第三教証に入っています。
 第八識の存在論証として阿陀那識を挙げています。第八識の異名ですが、
 阿頼耶識という場合は、ものを貯蔵する蔵という意味を持って、三義が説かれていました。
 「一切の雑染品の法を摂蔵して失せざらしむるが故に。」- 能蔵の義
 「我見愛の等きに執蔵せられて自の内我と為するを以ての故に。」 - 執蔵の義
 (我愛に縁りたるをば執蔵の義と無し、即ち此の識を所蔵と為す。) - 所蔵の義
 この阿頼耶識と云う名は、「唯異生と有学とのみあり。」と云う、我愛現行執蔵位ですが、自我愛が動いて、自我愛でもって自分を縛っている、そのことが分からない、その時には第八識は阿頼耶識と名づけるのだと。菩薩の階位でいいますと、第七地までが我愛現行執蔵位で、第八地・第九地・第十地が善悪業果位になります。この階位では自我愛はありませんが、過去を背負う身として生きていかなければなりませんので、仏位ではないのです。此の階位を異熟識と言いました。
 異熟果の意味は、種子の六義の引自果(結果を引き起こす因)を顕しているのだと。「能く生死を引く善・不善の業が異熟果なるが故に。此の名は唯異生と二乗と諸の菩薩との位のみに在り。」と。
 阿頼耶識と云う場合はですね、生きるとか、死するという意味は分からなくても、死にたくない、生きたいという欲求が強くあるのではないですか。そこでもがいているんだと思います。僕も随分もがいてきて、もう解決したものと思っていましたが、現実の目の前に起っている事柄に対して、やっぱり「生きたい、死にたくない」と思っているんです。切実に思います。
 しかし、生死に執着しているいのちの底で、いのちを支え続けている働きがある、それを阿陀那識と云うのだと。
 三つの理由が挙げられています。
 (1) 「能く諸法の種子を執持して」
 (2) 「色根と依処を執受して」
 (3) 「結生(ケッショウ)と種子を執取する」
 執持(シュウジ或はシッチ)とは、狭義の意味で、ここでは阿頼耶識の種子を保持する動きの面から執持と云うのだと。
 執受とは、ものを生み出す可能性をも執受する。種子を執持し、有根身を執受すると捉えています。
 執取とは、結生相続を執取するという意味ですが、胎中に入って再び生を結び、生をつづけることと捉えています。
 この三義を具しているのが阿陀那識なのです。

 この三義につきまして、もう少し具体的に読みたいと思います。 つづく
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