唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(9)識食(シキジキ)

2017-07-16 07:53:15 | 阿頼耶識の存在論証
  
 今日から識食の説明に入ります。
 識食は、諸識の持つ作用を以て体とするもので、有漏の識が段食と触食と意思食との力に由って増長することがよく食の事となることを明らかにしています。
 「四には識食、執持(シュウジ・シッチ)することを以て相と為す。謂く、有漏の識が、段と触と思との勢力(セイリキ)に由って増長することにおいて、能く食の事と為る。」(『論』第四・初左)
 問題は「執持することを以て相と為す」一段だと思います。
 執持の定義は阿頼耶識の相分(所縁)の種子と有身根という、すべての存在を生じる種子(可能性)と五つの感覚器官とを絶えず、水の流れのように絶えることなく相続しつづける働きのことですが、本科段での執持の解釈は諸識に及んで述べられています。
 この識食は。諸根の大種を長養(チョウヨウ・養い育てる)することを以て、よく食の事となり、段食・触食・意思食の勢力に由って諸識を資長すると『述記』は釈しています。資長は資養&長養と同義語ですね。『瑜伽論』巻第五十七・六十六等に説かれている通りであると。
 例えば、眼識であれば、眼識のもっている眼根を維持し、養い育てるという働きを持つのが識食であるわけですが、それは八識に及ぶことを以て執持と言い現わしているようです。
 識が生起するのは、三和合と定義されていました。つまり、根・境を依り所として識は生起するわけですから、根が養い育てられることは、識もまた養い育てられることになるわけですね。ですから、本科段でいう執持は執も持も識を維持し保持することという広義の意味で使われているようです。
 次科段に於いて、「識食の体は八識に通ずれども、而も第八識のみ食の義勝れたり」(『述記』第四末・六右)と、識食の体は第八識であると説明します。
 次回は識食の体について『論』から学ばせていただきます。
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 昨日のFB投稿より転載
 「㋅27日投稿の田淵先生のお言葉
 「思うけど、煩悩、煩悩って、みんな嫌がるけど、煩悩さんに対して失礼やんか。煩悩があるから私で居られるんやで。」
 時がたってじわっと響いてくんです。
 唯識で本質と影像、疎所縁縁と親所縁縁の関係をなかなか具体的に表現することができなくて悩んでいたのですが、田淵先生のお言葉に触れて、本質はありのままということ、煩悩もありのままに現出している。しかし私たちはどうしても煩悩に執らわれてしまいます。それが影像なのでしょう。
 現在が有る、縁起されたものとして実有(依他起として)、因是善悪果無記と教えられていますが、現行している「今」(流れのように刹那生滅を繰返している現在)は、何ものにも遮られることのない無垢なる私として生かされて有る身だと思います。
 しかし、現実的には、ここが見えないですね。私が居る、私が見て、聴いて、味わって、感じて意識しているのではないですか。
 煩悩が溢れだす諸条件が整っています。しかし、煩悩を通さないと分からない、触れることの出来ない事実かも知れません。それほど煩悩は煩悩の正体を知られたくないのでしょう。その証拠に私たちは、生まれてから死ぬまで「私」といい、私が在ることに何等の疑問を持っていません。
 面白いですね、死にますと、本名が俗名になります。そして法名が与えられます。俗は仮ということ、仮名人なんですね。私たちは、本名は仮のものであることを無意識の中に承知しているのではないでしょうか。
 では、実のものは何なのか。それが仮和合であることが実有としての存在である私の実体なのだと思います。
 仮ですから、貴方との関係が破壊されれば、私の存在も無いということです。この関係が無条件であることが縁起的存在ということでしょう。
 また、業縁存在ともいわれます。業は異熟果です。阿頼耶識の果相、ここに能蔵としての阿頼耶識が蔵識といわれる所以がありますが、果相を因として、諸条件と向かい合っているのが縁でしょう。
 ですから、決定的に現行を引き出してくのは因に由るわけです。
 「因は種子」であり「無始の時より現在に至り、未来永劫に展転相続して親しく(直接的に)諸法(すべての環境世界)を生み出してくる直接原因であり、縁は間接的要因であるということですね。
 ここがはっきりしないのが、恒行無明ですが、無明が破られてくる時(「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき」)に、我見の相が見えてくるのでしょう。
 宗祖は、
 「我見憍慢悪衆生」と押さえられています。我見は他と対峙します。怒りを生み出してくる根本原因ですが、私たちは、我見という、私の見解によって、奢り高ぶりを生じて他を抹殺している相が見えるんだと教えられているんだと思います。ここに回向と自覚の出遇があるのではないでしょうか。
 我見に依って慢心が生れ、慢心が我愛を生みだし、自分の都合でしか生き得ることの出来ない相が白日の下にさらけ出されるところに、慚愧のこころがいただかれるのですね。ここに煩悩が有りがたいご縁であると手が合わさるのではないでしょうか。
 田淵先生のお言葉から、こんなことを感じました。南無阿弥陀仏」
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