唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (56)

2017-04-19 20:45:48 | 阿頼耶識の存在論証
  
 第五教証です。今までの教証は大乗側からの論証でしたが、第五教証は、小乗側の文献にも第八識を説いているものがあるということで引用してきます。「共許の教を引く」と云われています。
 総じて言えば、
 「余部の経の中にも亦密意を以て阿頼耶識は別の自体有りと説けり。」(『論』第三・二十二右)
 「余部の経」、大乗仏教の経典以外の経、つまり小乗の経典ですね。その中にも、仏は密意をもって、小乗の経典には真意が隠されたものとして説かれている。「阿頼耶識は別の自体有り」と。六識いがいにですね、別体としての阿頼耶識の存在を認めているということですね。
 第一番目が、大衆部の説です。
 革新系の大衆部の阿含経の中に、「根本識」という言葉が出ている。根本の心があるんだと。根本の心が六識の所依止となっている。つまり、六識の依り所が有って、それが根本識として説かれている、ということですね。
 「謂く大衆部の阿笈摩(ア-ガマ)の中にも密意を以て此れを説いて根本識と名づく、是れ眼識等が所依止なるが故に。譬へば樹の根の是れ莖(クキ)などが本なるが如し。眼等の識に是くの如き義有る者には非ず。」(『論』第三・二十二右)
 大衆部のことは、音写で摩訶僧祇(マカソーギ)といい、大衆は意訳です。
 譬が出されています。「是れ莖(クキ)などが本なるが如し」と、茎とか、葉とか花などの本になるようなものですね。根本の心であると。根っこです。根は地中深くに張り巡らされて、地上の茎や葉や花を支えているわけです。此の事を例えとして出されます。これは「眼等の識に是くの如き義有る者には非ず」ということなのです。眼識一つをとっても、眼識が他の五識の依り所とはなり得ないのですね。他の五識も同様です。そうすれば、六識を支えている心の依り所という心があるのではないのかというのが大衆部のの考え方なんです。これを根本識と表しました。阿頼耶識とは言えないけれど、阿頼耶識と同じような心の領域があると認めているのです。
 次は二番目に出されてきます、上座部の説です。
 「有分識」を以て。この有分識とは、上座部と分別論者とが説く識のことですが、「有」とは三有(欲界・色界・無色界)、「分」とは因の義、生命的存在が生まれる原因としての識を有分識と表しました。大乗は、この識は仏の密意として説かれた阿頼耶識とみました。
 「上座部の経と分別論者とは倶に密して此れを説いて有分識と名づく。有というは三有ぞ、分というは是れ因の義ぞ。唯此れのみ恒なり徧ぜり三有の因たり。」(『論』第三・二十二右)
 『述記』の釈は、「「体恒なり断ぜず三界に周徧せり三有の因と為す」と、六識とは別体であることを説いていると見てきます。
 三界は迷いの世界と云われていますが(法性に触れた者が、三界は迷妄の世界であると証明しているんでしょう)、この迷いの世界に生まれてきた因が阿頼耶識であるわけですね。「無始の時より界(種子=因)たり」とですね。それを上座部や分別論者は有分識と表したんだと、こういうことなんですね。
 『無性摂論』巻第二に、九心輪が説かれますが、これが阿頼耶識であると云われています。
 次の説は他地部の窮生死蘊ですが、次にします。
 
 

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