唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (59)

2017-04-23 20:28:30 | 阿頼耶識の存在論証
   昨日から問題になっています慈悲、翻訳すると抜苦与楽という利他を表す言葉です。中村先生の『慈悲』もう一度読み返したいと思います。
 前回は「、阿頼耶を愛し」という増一阿含の言葉から第八識の存在も、原始仏教では容認されていることを述べました。ここで云う「愛」は自愛ですね。阿頼耶を愛する心がある。つまり、末那識の存在も認めていることになるんでしょうね。ここはね、本識から生み出された転識ですね。阿頼耶識が末那識を生み出し、生み出された末那識が阿頼耶識に執着するということになる。言語を持つ、相を持つと、人間は執着を起こすんですね。でもね、執着を起こすと云うのは、起こされる識が有るということですね。末那識は阿頼耶識がなかったなら存在する識ではないのです。転識とはこういう性格を持っているのですね。
 
 「謂く阿頼耶識は是れ貪が総別の三世の境なるが故に、此の四の名を立てたり。」(『論』第三・二十三右)
 つまりですね、阿頼耶識は煩悩の塊である貪欲、これは自愛ですが、自愛によって貪られていくもの、これが総になります。総じていいますと、第七末那識の我愛になります、愛阿頼耶のことです。別しては楽阿頼耶、これは現在のことであると云います。末那識は今現在「楽をねがっている」、自分の思いが通りますように、ごく普通のことですね。私たちは自分の思い通りに生きたいと思っているのではありませんか。これは貪りから発生するものです。根っこは貪り。枝葉が出た時、現在ですね。思い通いにしたいという欲求、不純ですが、不純とは思いませんね。思わせないのです。それが我愛の深さです。恒に意識の底で意識をコントロールして煩い悩みを引き起こしてくるのです。
 別しては欣阿頼耶、欣は喜ぶ、有頂天と云われています。過去から現在に至る迄、阿頼耶識を愛し続けてきた、これが欣阿頼耶です。過去から現在という、過去のことですね。そして未来永劫に阿頼耶を愛し続けていくことになります。これを喜阿頼耶と表現しました。
 きつい言い方になりますが、仏法を聞くのも、自分の都合によるわけです。でもね、ここが接点なんですね。自分の都合で聴いていかれることを縁とするということが大事なところであろうかと思います。自分の都合で取捨選択してしまうんです。この自分の都合が見えないですわ。この自分の都合が見えないところに話しかけることが大切な作業であると思います。対話は相手の都合を容認しながら、都合が自分を縛っているということを、自分を通して話をすることが大事なことなんでしょうね。
 「第二に更に解すらく、謂く現在に於て愛し過去に於て楽し、先に楽するに由るが故に復今世に於て欣し、欣するが故に未来に於て喜すといえり。」(『述記』第四本・二十七右)と。
 次科段は、阿頼耶識が真の愛着処であることを論証します。


 
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