唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (31) 自類相応門 (17) 

2014-08-06 21:28:18 | 第三能変 諸門分別 自類相応門

 『了義燈』の所論をうかがいます。

 「 論。與身邪見一分亦爾。西明釋云。執極苦蘊爲我。即無慢倶。非極苦蘊亦得慢倶。故下文云。特苦劣蘊憂相應故 今謂本解爲正。許慢與彼執苦蘊身見得並。此言一分據多分説。故下初師亦許縁苦倶蘊起慢憂倶。第二師亦云亦苦倶起。西明若云執極苦蘊爲我無慢。慢何苦倶。不可與餘倶。不許身見並。無別因故 問據多分説。實理何倶 答據分別慢不與執苦蘊一分我見倶。下約倶生故得倶起 又慢有七。卑慢得倶。故瑜伽五十九云。若任運生。一切煩惱。皆於三受現行可得。若分別者略有二慢。一高擧慢。二卑下慢。高擧有三。一称量。二解了。三利養。此高擧慢喜根相應。若卑下慢憂根相應。」(『了義燈』第五末・二十左。大正43・758c~759a)

 (論に「身と邪見との一分とも亦爾也」というは、西明、釈して云く、極苦の蘊を執して我と為るは即ち、慢と倶なること無し。極苦に非ざる蘊ならば亦慢と倶なることを得。故に下の文に云く、苦の劣蘊を恃むとき憂と相応するが故にと云へり。
 今謂く、本解を正と為す。慢は彼苦蘊を執する身見と並ぶことを得と許す。此に一分と言うは多分に拠って説く。故に下の初師も亦、苦と倶なる蘊を縁じて起す慢は憂と倶なりと許す。第二師も亦、亦苦と倶に起ると云う。
 西明は若し極苦蘊を執して我と為すは慢無しと云はば、慢は何の苦と倶なるや。余と倶なるべからず。身見と並ぶと許さず。別の因無きが故に。
 問う。多分に拠って説く。実理何ぞ倶ならん。
 答う。分別の慢は苦蘊を執して一分の分別の我見と倶ならざるに拠る。下は倶生に約するが故に。倶起を得。
 又、慢に七有り。卑慢は倶なるを得。故に、瑜伽五十九に云く、若しは任運に生ずる一切の煩悩は皆三受に於て現行すること得可し。若し分別の者ならば略して二慢有り。
 一に高挙慢、二に卑下慢なり。高挙に三有り。
一に称量。二に解了。三に利養なり。此の高挙慢は喜根と相応す。若し卑下慢は憂根と相応す。」)

 高挙慢とは、増上慢ですね。有頂天です。自分は他人と比べて勝れていると誇るわけです。これは喜根と相応すと述べられています。一方卑下慢ですが、卑下するというところには、自分の愚かさを隠したいという欲求が働くんでしょうね。憂根と相応す、内に憂いを持っているわけです。それを覆い隠しているのが卑下慢だと説かれているところに着目したいですね。増上慢、卑下慢ともに慢心なのですが、出所が違うのですね。慢心の深さを思い知らされます。
 


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