唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ) (2)

2017-06-19 20:55:41 | 阿頼耶識の存在論証
  
 『四食経』に説かれています「一切の有情は、皆食に依って住すという」のは、釈尊の成道にまつわるエピソードからの記述によるものと思われます。つまり、釈尊が五比丘と共に苦行をしていたことから離れて、スジャータの捧げる乳粥を食し、菩提を得たというエピソードにまつわる経典ですね。
 『釈尊の生涯と思想』(水野弘元著)によりますと、
 「釈尊は、これほどの苦行をしても、いっこうに効果が得られないので、身を苦しめることはけっして心の平安に導くものではないことをさとり、六年間も続けてきた苦行を、すっかりやめてしまった。
 骨と皮ばかりになった、弱った身体のあかを落とすために、付近の流れに入って身を清め、疲労のために、岸にあがることさえできないほどであったが、ようやく、木の根につかまって川を出て、村の若い女が捧げる乳粥をうけ、ようやく元気を回復するようになった。
 五人の従者は、かれらの期待にかかわらず、釈尊が苦行をやめて身を洗い、若い女から滋養分のある食事をうけられるのを見て、釈尊は、もはや堕落して、贅沢な生活に入ってしまったものと誤解し、これ以上、太子に従っていてもむだであると考えたが、釈迦國に帰るわけにもいかず、かれらだけで修行を続けるために、遠く西方ベナレス城外のミガダーヤ(鹿野苑)に去ってしまった。」
 蓬茨祖運師は『仏陀釈尊伝』において、
 「「いまや太子は、自己自身に道を見いだす以外にはないと、菩提樹のもとにすわった・・・」
 このいちだんは、今さらのように出るべき家は、出たと思っていたところにあったのではなく、自分自身が背負っているものであり、それで他の人に頼って道を求めても、その道は自分にとっての道ではなく、また苦行によっても見いだされるべきものではないということが明らかになったのであります。そして菩提樹のもとに座ったとありますが、菩提樹というのは、はじめから菩提樹という名前ではなくて、釈尊がさとりをえられたということにちなんで名づけられたものです。菩提樹はどこにはえていたか。それはわれわれの老病死にわずらい悩むしかない大地にはえていたという、そういう意味になります。インドのブッダガヤに行きますと、今でも釈尊が正覚をとられた樹だといって、菩提樹があるそうですが、なにも菩提樹というのは、そういう樹のことではないのであります。
 われわれは、菩提樹を生みだすべき大地としての身をもっているのであります。われわれは、偶然この世に生まれてきた。そしてなにかのことがらびよって死んでしまうような頼りないものとして考えらるけれども、しかし菩提樹を生みだすべき大地という意味があります。こういうことが釈尊が仏陀となられた意味にあるわけです。 
 菩提ということばは梵語ですが、漢字に翻訳すると、簡単には道と翻訳してあります。道とはどんな道であるかというと、煩悩を滅する道。一般には欲望というだけでは煩悩の意味がたらない。わずらい、悩みという意味が特別に教えられるのが仏陀の教えでありますから、われわれが欲望という場合、それを煩悩というのであります。したがって欲望というものは、満足できるものだと普通考えられています。またときにわれわれは満足を感ずることがあります。しかしこれも満足したと思うだけで、本当の満足にはほど遠いわけです。しかし本当の満足がわからないから、一時的に満ち足りた思いがおこったときに満足だと思うのです。しかし満足してからどうするかとなると、ここで元気をだして一踏ん張りとまた煩悶をはじめるのであります。それがわれわれのわかる範囲の満足であります。
 それで仏陀のおっしゃた満足がそういう意味の満足ならいくらでもあるわけです。しかしそれは不満に反対の満足であります。満足したとき、また次の不満へ進まなければ満足ということに意味がない。また不満の方へ進めなくなったら、満足も満足でないわけです。それは末期の水になるわけです。もう満足したといって、それでイキがきれるのでは末期の水です。
 ですからそこに仏陀は、いわゆる煩悩をのがれようとして道をもとめておられたが、これをのがれた道は道ではなかったということに気づかれということがあります。そこで煩悩そのまま菩提と、即の字がつきます。煩悩即菩提。これは熟語であります。仏教というものの一番簡単明瞭で、意味が深くてむずかしいけれどもいいつくされている言葉であります。煩悩即菩提ということばは、ちょっとやそっとではわかりませんけれども、これをもとにしてできたのが仏陀であります。そこで今ここで菩提樹ものとに坐ったというが、菩提樹の下になにがあったのかというと、煩悶、煩悩であります。菩提樹の根は煩悩であります。どしっと煩悩に坐ったといってもいいのです。私たちは、はじめは釈尊が樹の根っこに坐られたのだと、そこならが日があたっても涼しいと、しかし雷がおちたらたいへんだなとよけいな心配をしたりします。人間とは妙なものです。そころが釈尊が坐られた菩提樹なんてあったやら、なかったやら本当はわからないのですが、それが今ブッダガヤに、これが釈尊が樹の子孫なのだということが書いてあります。。そんな写真を見たことがあります。今日われわれはそういう意味で菩提樹を考えております。
 しかし、菩提樹の根は煩悩であります。菩提樹という意味は、大地に樹がはえている。樹が菩提樹と名づけられたときには、そのはえている大地は煩悩であります。つまりわれわれが日夜煩悶している世界であるということです。その意味で、次にわれわれが日夜煩悶している世界を描写してあるわけです。
 内観というのは、今までは道を、悩みというものの外に、悩みというものからでてさがしていたということです。今は悩みというものをはなれないでみなければならない。だからじっくりと見のがさないようにして自分の悩みそのものをよく明らかにみつめなければならないという意味で内観という文字をもちいるのであります。ところがそれを妨げてくるものがあります。それは普通なら想い出せないのです。ところが自分のそういうことを見ようとすると、見せまいというように動いてくるということです。それが世俗の欲望であります。それは釈尊がかって王宮にいたときに眼を楽しますために美女を集めてうたをうたわせたり、舞いをまわせたりした昔のそういうことが想い出されてくる。これは決して嫌なものではないです。やはり人間としての欲望であります。」と、読まれています。
 釈尊が菩提を得るについて「内観」という眼差しが五比丘には見えなかったのですね。
 釈尊が乳粥を食せられたことに、食の意味が、身と心を養うという意味が込められていることを教えられます。
 「謂く、契経に説ける食に四種有り。」(『論』第四・初右)
 此の一段は総標を表しています。『四食経』には食には四種あることを明らかにしているのです。
 四食の一つめは段食です。又にします。
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