唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(2) 段食の体

2017-06-22 21:33:54 | 阿頼耶識の存在論証
  
 段食(ダンジキ)の体について述べます。
 「一には段食、変壊(ヘンネ)するを以て相と為す。」(『論』第四・初右) 変壊は、本科段では、消化すること。消変(ショウヘン)と同じ意味になります。消化し変化することです。食物そのものは段食ではありません。食物が消化されて、栄養素となり、血となり肉と為ることを変壊という言い方をしています。段食は変壊することを以て相(体)となす食であるのです。
 「段食は変壊する時、若しくは受用(ジュユウ)する時、建立して食と為す。」と。
 初めに、食の相を述べます。
 段は「分段の義」と云われていますが、一つ一つ分けてくぎること。噛み砕くと云う意味になろうかと思います。
 次科段において説明されますが、香・味・触の三つが変壊することを以て相となす食であるということです。食の事ですね。それで食事と云うのです。
 『述記』には「分分にこれを受ける故に段食と名づく」と説明しています。
 香・味・触は段食ではなく、段物(ダンモツ)と云われるものですが、『瑜伽論』巻第六十六では、段物が食物となるのか否かが問題として提起されています。

 「謂く、欲界繋(ヨッカイケ)の香と味と触との三が変壊する時に於て、能く食の事と為る。」(『論』第四・初右)
 食事は、香境と味境と触境の三つが変壊する時によく、血肉となり、身を養い、心を養う食の事となるのである、と。変壊する時ですから、胃の中で完全に消化され、そして諸根を長養(チョウヨウ・養い生長させること。)し、喜受・楽受を生じて初めて段食と云われるのです。
 教証は、『瑜伽論』巻第六十六に由ります。
 「復次に、此の中段食は當に言うべし香味触の所摂なりと。何となれば香味触若し消変すれば便ち能く長養し、正しく消変せざれば乃ち損減(ソンゲン)を為すに由ればなり。色等の余法は長養し損減し消変することあること無し、是の故に彼を段食の性に非ずと説くなり。若しくは諸の段物は呑咽(ドンイン)する時に於いて心をして歓喜し、諸根を悦豫(エツヨ)せしむ。爾の時に當っては段食と名づけず。但だ触食(ソクジキ)と名づくるのみ。若し受用(ジュユウ)し已って安隠(アンノン)に消変すれば喜楽を増長す、消変する時に於いて乃ち段食と名づけ、若し熟変するとあるも諸根を長養し安楽にすること能わざれば、彼れ熟変すと雖も段食と名づけず。・・・」
 意味は読んでいただければお分かりになると思いますが、私達の普段の食事作法に言及されているものと思います。合掌して「いただきます」また合掌して「というごちそうさまでした」時にはじめて段食として、諸根を長養し、喜受楽受を生じてくるのであって、その事が伴うことが無ければ、本当の食事とはいわれないのだということでしょうね。そして、段食は欲界にのみ存在する在り方なのです。いわば手がかりです。三界を超える手がかりが食事作法において重要な意味を持つということなのだと思います。
 
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