唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(7)意思食 (3)

2017-07-06 22:42:32 | 阿頼耶識の存在論証
  
 識食に入る前に、意思識の補足をします。
 『成唯識論要講』で太田久紀師は意思食について次のように述べておられますので紹介します。
 「第三番目が意思食、「希望するを以て相と為す。」これもいいですね、意思食は希望です。希望する。意志の力、心の智から、そういうものによって私共は自分の命を支えていく。お経の中に出てくる話です。貧しい家の子供が危篤状態になった。出稼ぎに行っているお父さんが帰ってくるまでなんとかして支えてやりたいと、お母さんは布の袋にいっぱいお米をいれて枕元にぶら下げ、お父さんがかえってらしたら一緒に食べようねといって子供を励ます。子供はお父さんがかえるのを首を長くして待っている。ところがある日ねずみがその袋を嚙った。そうすると砂が落ちてくるのです。それを子供は見て、察しがつくのです。これはお母さんが私を励ますためにお米だといったのであって、本当は砂であったのだと分かると急に容態が悪くなって死んでしまった、という話であります。これが意思食です。哀しい話ですね。」(第二巻p57/58)
 論拠は『倶舎論』(大正29・55b)ですが、もう一つ喩が出されています。
 頌では、
 「頌曰 有情由食住 段欲體唯三 非色不能益 自根解脱故 觸思識三食 有漏通三界 意成及求生 食香中有起 前二益此世 所依及能依 後二於當有 引及起如次。」
 になります。
 (有情は食に由って住す。段は欲にして體は唯三なり、色に非ず、自根と解脱とを益する能はざるが故なり。触と思と識との三食は、有漏にして三界に通ず。意成と及び求生と食香と中有と起となり。前の二は此世の所依及び能依を益し、後の二は當有に於て引き及び起こすこと次での如し。)
 頌に対する論の説明が以下になります。
 「 昔有一父。時遭飢饉欲造他方。自既飢羸。二子嬰稚。意欲攜去力所不任。以嚢盛灰挂於壁上。慰喩二子云是麨嚢。二子希望多時延命。後有人至取嚢爲開。子見是灰望絶便死。又於大海有諸商人。遭難敗船飮食倶失。遙瞻積沫疑爲海岸。意望速至命得延時。至觸知非望絶便死
。」
 もう一つの喩は、「海で船が難破して食料を失った商人が海上はるかに浮かぶ泡を見て陸と思い、そこに早く行きつくことを望んで延命することが出来た。しかしこの場合もそれが泡であり陸ではないと知る時、望み絶えてすなわち死せり」と。
 私たちは、生きるということ、生きていることを当たり前としていますが、それは絶望の淵に立っていないから脳天気なのでしょうね。災害が起きる、或は不慮の事故に遭遇する等の時に、一縷の望みが生命を支えていくわけでしょう。たぶんですね、望みが断たれてしまいますと生きる気力を無くしてしまうのではないでしょうか。
 生きるということは意思の力なのですが、意思の力を支えているのが第八識、いのちそのものなのですね。
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