唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(31)識食の体について・結び(2)

2017-09-20 20:54:42 | 阿頼耶識の存在論証

 前回の講義の中で、私が救われるのは、どのような道理に由ってなのかを考えてみました。『歎異抄』では「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき」ですが、この時は永遠を表しますね。つまり「無始よりこのかた」自分の所まで届いてきた法が有るということなのでしょう。難しく言えば「空性」ですね。唯識では「円成実性」です。能対治の法です。道を求める時にたまたま出遇うことができる、求めなければ出遇うことは適わないのですね。そして出遇ってみれば、始めから自分の所に届いていたということですね。それが無漏法です。
 有漏法は考えられたもの、量られたものです。量られたものは、必ず分別を起します。この分別は自損損他であると、善導大師は教えてくださいました。
 有漏は有漏を尽くしても無漏にはならんということですね。無漏に依って有漏が所対治の法になるわけでしょう。考えられたものを超えるわけです。イデアではないのです。転(パリナーマ)が自然法爾として自らの身の上に起こるわけでしょう。此の位を正定聚の機と宗祖は押さえられました。
 もう少し、識食の體について考究します。
 問が、一切有情の中に仏ははいるのかという問題です。二つ答えが用意されています。
 (1) 仏は有情に含まれない。
 (2) 示現を以て有情とし、示現によって食と云う。『雑集論』巻第三等に「説仏是示現依止住食」(仏をば是れ示現依止住食と説けり)
 初めに仏は有情の中に含まれないということについて、 
 「唯だ取蘊に依ってのみ有情を建立す、仏は有漏無きを以て、有情には摂めらるるに非ず。」(『論』第四・三左)
 つまり、有情は無常の五取蘊を持つ者を指します。迷いの生存の自覚が有情なんです。有情という存在は何処にもいないわけです。ですからね、自分の裁量でもって他を裁いては駄目なんですね。先ほども書きましたが、他を裁くことが自を傷つけることになる。ここが外道から内道への要になるのでしょう。
 第二については次回にします。
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