唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

大坂坊主BARstaff日誌 (2)

2015-01-12 20:12:20 | 大坂坊主BAR staff 日誌
  昨日 坊主BARstaffは長谷さんでしたが、正厳寺様での講座修了し、懇親会も早く終わりましたので、講座に参加してくれていました園田君を誘って坊主BARに遊びにいきました。長谷さんが終電の都合で帰られた後、バトンをひきついでstaffをさせていただきました。そこで明日誕生日という女性が見えておられましたので、誕生の意義についてお話をさせていただきました。
 本日の投稿は、先年の7月20日八尾の聞成坊さんで話させていただきました『人として生をうけて』を掲載させていただきます。

 『人として生をうけて』 法話  河内 勉 師   
 
 おはようございます。去年もこちらに寄せてもらったのですけれども、去年はかなり緊張しておりました。それで今年はちょっては楽に行くかなと思ったのですが、緊張がだんだん昂じてきました。何を喋っていいのか、また皆さんに何を伝えていったらいいのか、ということがはっきりしないままここにいます。暁天講座ということで朝早くから有り難いことで、ともかく今日聞いていただくことは、自分というものを通して聞法、法を聞くということはいったいどういう意味があるのかな、ということを少しでも自分の中に確かめながら、それを語れればいいかなと思っております。
先週こちらの学習会の時、「河内さん、今度の暁天講座の時、自分の事を話ししなけりゃならんよ」と言われたのです。それまではちょっとは教義的なこともしゃべらなければならないかなと思っておったのですけれども…。いざ、自分の事を語らねばいかんよ、と言われたとき、去年もある一定のことは喋らせてもらったのですけれども、よくよく考えてみますと、自分が聞法する、自分でお寺に足を運んで聞く、という原点は一体どこにあったのかな、こういうことを考えざるをえませんでした。
それで去年も少しお話をいたしましたが、重ならないようにお話をしたいと思います。私は19歳の折に、浄土真宗のお寺に足を運んでいるということはありましたが、仏法を聞くということはなかったのです。けれども、坊さんのすすめで、その後そこの仏教青年会にお邪魔することになり、先生方のお話を聞くということになったのです。それが入り口には違いないのですけれども、本当にそこから仏法を聞く歩みが始まったのかということを自分の中で考えてみたときに、確かにそれはそれで間違いのないことなのですが・・・けれども、私が21歳の時に、学校を卒業し、社会に出たわけです。それまでは親の庇護のもとで何をするにしても自由である。親が右を向けと言っても自分は左に行っても学費も出してもらえるし、小遣いもらえるし、時間はありますし、ということで好きなようにしておったわけです。しかし社会に出るとそうはなかなかうまくいかなかった。しかしまだまだ卒業したけれども浄土真宗の教えをもっと聞きたいということもありまして、会社を辞めてもう一度学校へ行き直したということがあるのです。しかしそういう生活は長続きしなかった。
 その間いろいろ事情がありまして、事情がありましてというのは私の生涯に閉じ込めておくことで、そこの蓋をこじ開けるということはやはりしてはならないということが自分の中の決め事としてあったのです。けれどもそこを一つ語っていかないと自分の事というか、聞法するということの大切なことが欠けてしまう。今回ご住職に言われたことがご縁となって、そのようなことをじつは思ったのです。
 それが何かと言いますと、21歳で学校を卒業したのですけれども、卒業する以前からですね、平野の願生寺さんにはよく通っていました。そこで仲野良俊先生にお会いして、こちらでも講義をさせてもらっています『唯識』という学問を聞かせていただきました。また、こちらの八尾別院にも毎月、高原覚正先生がお見えになっておられまして、高原先生にも随分厳しく教えられてまいりました。そのようなことがありまして、それで自分が生きていくのはこれしかないと、真宗の中に自分が身を置いてそれで生涯自分を尽くしていこう、これしかない、というひとつの思いがあったのです。
 それで私がお世話になっていたお寺から「この道で歩んでいくのだったら君の面倒をみましょう」というお話がありました。ところが、私は家が商売人であり、一人っ子なのです。跡取りがないということで親が大反対したわけです。父は「かなわん。お寺に入ってしまうということは許さない」と。去年もお話ししましたけれども、母親が小さいころ亡くなって父がなかなか面倒みられないということで、親戚の叔母のところに預けられてそこで育てられました。父は叔母のところに行くわけです。「こういうふうに育てたのはお前に責任がある、どうしてくれるんや」と。それで叔母は私に「頼むからそんなことを言わんといてくれ」と泣き付くということがありました。私はそれに逆らえなかったです。小さいときから大きくさせてもらって、すごく恩を感じていましたしね。このおばさんのことは百パーセント聞かなければならないと。ないがしろにするというか、振り切っていく勇気はなかったですね。それでこの話はあきらめたのです。そんなに簡単にあきらめることができるものかということなのですけれども、でも仕方がないということであきらめました。これをきっかけに一切仏教というか真宗というものから足が遠のいてしまったのです。こんなことがあったのです。「仕方がない、あきらめよう」と思ったのですが、自分では思いもよらなかったことなんです、「あきらめられん」ということがあったのでしょうね。
 しかし私がいま感じていることは、私の聞法はそこから始まったのだなあと思うのです。お寺を離れたところから、離れて何があったかと言ったら、いったん自分は道を決めたわけです、この道で行くのだと。これしか自分の生きていく道はないのだと。若気の至りもあったでしょうけれど。しかしそのことが180度回転してしまったら、世間のうちに身を置くことになる。ですから迷路にさまよったことになるのかなあと、いまから考えると思います。その頃はそうは思っていなかったのです。そして、自分では全く気がついていないのだと思いますが、気がつかないまま、「違うな」と、「こんなはずではなかったなあ」ということがあったのだと思います。ですからその反動として遊びまくったということもあります。金もうけに走った。逆に何かをつかみたいということだと思います。その中から自分がこうあるべきだなと自分が思えば思うほど大きな反動が・・・、だからこそ20代の頃は遊び回ったのだと思いますね。
 でもそういう生活というのは長続きしないということがすぐに表れました。20代30代の元気盛りの時はそれでもいい。ちょうど今の時期とは違い、バブルだったのです。ようするに儲かった。何をやっても儲かった。使っても儲かった。銀行金利が高かったですから勝手にお金が増えた。そういう時代です。証券もどんどん右肩上がりで上がっていった。そういうときは有頂天ということが分からない。上に上がったら反動でかならず落ちるのです。落ちるということは一切考えないです。商売をやっていてもそうですし、株式投資をやっていてもそうです。損をするということを考えない。儲かることしか考えない。儲かったら使うのです。使ったら減ります。すると落ちたときは何ともならない。オイルショックの時でしょうか、下がったのです。そうすると商売は毎月毎月売り上げが落ちるのです。落ちるけれども気がつかないのです。儲かっている時の幻想というのか、影が付きまとっていると言っていいのか、そういうことがありまして、損をしたということがあまり感じられない。そういう生活が20年ほど続きました。しかしそういう生活はバブルの崩壊とともに崩壊しました。そこのところの話をすると長くなるので割愛します。ともかく、バブルの崩壊とともに自分の生活もあっけなく崩壊しました。40歳ぐらいの時でしょうか。いまから30年ほど前のことです。
 それからどう言ったらいいのでしょうか、全国を浮浪するという生活を余儀なくされました。それで各地へ行きましたが、あるとき岐阜県の竹鼻というところにお世話になっていたときがありました。そこには竹鼻別院というのがあるのです。私が学生時代、教学研究所に宮城(ミヤギシズカ)という先生がおられました。後に九州大谷短期大学の学長さんになられた方です。その先生の法話が3日間連続の夏季講座としてあると竹鼻別院の掲示板に貼ってあったのです。その時にね、行けなかったです。時間はあったのです。朝の7時から8時半ぐらいまでです。3日間だと知っていたのです。会いたいなあ、先生に会いたいなあと思ったのです。思ったのですけれども行けなかったのです。足が向かなかったのです。怖かったというのもあるのでしょうね。先生に会うことがね。行きたいなあ行きたいなあと思ったのですが、結局は行けなかった。それからお寺に足を運ぶということに至るまでは7年間要しました。
 7年間要したというのは私の中では、バブルの崩壊の時に家庭が崩壊して離婚したということがあり、その後再婚したのです。年齢のこともあり子どもが授からないということがありましたが、たまたま授かりました。その時に自分の生き方というのがものすごく問題だと思えました。こういう生活をしていて生まれてくる子供に対して自分は育てるということを一体ほんまにできるのだろうかと。もしこの子どもが将来、人は何で生まれて何をやって何処へ歩いていったらいいのだと問われたら、自分はいったいどう答えていったらいいのだろう、とものすごく身につまされた、矢が刺さったように感じることがありました。その時にこれもタイミングなのでしょうけれど、自分が求めたからそういう記事が目に入ったのかどうかわかりませんが、その時名古屋にいました。中日新聞の日曜日に宗教欄みたいなものがありました。そこにたまたま目を通したら、寺川俊昭先生が碧南の方で清沢先生の讃仰会をやられる、という記事が目に入ったです。その時家内はちょうど臨月でした。いつ生まれてもおかしくない状態でした。でも、これはいっぺん聞きに行かなければならないな、私自身のためではなくてこの子のために、将来この子に何を伝えていったらいいのか、そのために先生のお話を聞かねばならない、と重い足を運びました。この時初めて聞こうと思った。たぶん10代、20代前半の時に聞いておったのは一種の興味本位、仏教というのはこういう考え方をして、こういう事を言っているのだと、言ってみればお釈迦さまはこういうことをおっしゃたのだな、ということぐらいのもので、それが自分の生活にとってどういう意味があるのかということを何も聞いていなかった。聞いていなかったことが、ズッーとそこから離れていたことが、その聞いていなかったということ、それが大切なご縁だった、と思うのです。
 それで寺川先生のお話を聞きに行った。先生が何をお話になったかは何もわからない。ただ自分を問いなさい、自分を問いなさいということをおっしゃっておられたとは思うのですけれども、そういうことが全く分からないまま、だだひとつだけはやっぱりもう一回お寺に足を運んで聞かねばならないのではないか、ということでした。それから名古屋の東別院に聖典講座月一回ありましたので、そこへ行き、聞くようになりました。その時は2年間延塚知道という先生が『浄土論註』を2年間に亘って読むというで、連続のお話しだったら少しは勉強できるのではないかと思い通ったわけです。
 その時に地下鉄で帰るときに、名古屋の南区からおいでになったご婦人に声をかけられまして、「あなた熱心に聞いておられるけれども、私が知っている先生で、この方も大阪からきておられるのだけれども、一回会ってみませんか」とおっしゃられたのです。それで「ぜひお会いしたいです」と言うと、「ちょうど今週の日曜日に桑名でお話をされるので、一緒に行きましょうか。」と。「どう言ったらいいのですか」「近鉄の桑名駅、階段を上がったところに喫茶店があります。そこへ来てくれはったらすぐわかります。大きな人がおりますからすぐわかります。」と。それで言われた待合せ場所に行ったのです。その時にお会いしたのが聞かれた方もおありかもしれませんが、ご住職の教え子の鶴田という方で、名古屋の港区の養護学校の先生で、大阪教育大学を卒業して名古屋に奉職して養護教育にかかわっておられる方です。彼は熱心な聞法者で非常に厳しい。ズバッと突いてくる人です。お会いして4年間ぐらい一緒に聞法させてもらった。だから彼には随分教えられました。私はこれと言って就いた先生はないのです。いろんな先生に引っ付き虫みたいに引っ付いていたのですが、いちばんよくしゃべって、いちばんよく教えられて、いちばんよく感化されたのが鶴田さんですね。彼は今でも名古屋で聞法会を開いて一生懸命やっていますけれども、もう20年ぐらい会っていませんけれども。彼のことは一時も頭から離れないくらいで、彼には聞法の姿勢をものすごく教えられました。
 聞法というのは何故大切なのかなあと考えると、私のことでいうと、何もわからないまま生まれてきて、学校教育あるいは親の教育で育ってきた。他方私の父が終戦の焼け野原の中で、みんなそうだと思いますが、日本の復興のために自分の事を顧みることなくとにかく働いて働いて年老いて一線から身を引いて、と生きてきた人、その人に対して生きることはどういうことなのか問うてもその答えは無理なのです。一生懸命働き続け、育ててもらった。その父が亡くなる直前なのですが、ちょうど94歳の時ですが、自転車に乗ったら危ないとわかっているのだけれども、隠れて自転車に乗るのです。結果ひっくり返る。倒れて大腿骨を骨折して、年が年だからリハビリはきついのです。だから「そんなリハビリみたいなものは嫌だと、これでええんだ」と。でもリハビリしないと足は動かなくなるので、「ぼちぼちでもリハビリしたら歩けるようになるで」と言っても、「そんなものはかなわん。これでええねん」と。歳を取ったら頑固になるのですね。頑固になるには頑固になる理由があるのですけれどもね。そうしたら退院してきても動けない。だから体はしっかりしているのですが、足だけが動かない。ですから自分がもどかしいのでしょうね。動き回ることができない。物ひとつとることができない。だからその時ふっと愚痴が出たのですね。私はそれがものすごく大事だと思うのです。どんな愚痴が出たかというと、「おれはこの歳になるまで何で生きてきたのかな」と。「わからん。これから何をしていいのかわからん。生きていることが分からん。生きているのか死んでいるのかわからん。それなら死んだ方がマシだ。はようお迎えきてくれんかそればかりを祈っている。」と云うたのです。これは自分の思うようになったらいいのだけれども、思うようにならへんから生きていてもしゃあない。だから生きる意味が分からへん。そういうふうに言ったのですけれども、私にとっては非常に大事な大きな問題を父が与えてくれたなあと、こういうふうに思うのです。
 それはどういうことかと言いますと、「お前今いろんなことがあるやろうけれど、本当に生きるということはどういうことかはっきりしているんか。今はっきりせえへんかったら死ぬまではっきりせえへんぞ。だからおれを通して生きるということはどういうことなんや、と考えろ」これは父が体が動かないということを通して、自分の身を通して、こういうことになった時に、お寺に行って仏法を聞いているけれども、ほんまにそれで良しと言えるのか、生半可な気持ちで行っていてもあかんぞ。というような事を言ってくれているのではないかと。それは私も今は体が動きますし、排便排尿も自然にやってくれているから当たり前のように思っているのですけれども、その当時の父は体は動かない、オシッコも出ない、腎不全にかかっていましたから。だからお腹のここに穴をあけて、カテーテルを通して人工的に排尿していました。それをしなかったらどんどんたまってきて心不全を起こしてしまうのです。ですから大変な生き方ですよね。
 私たちが普段当たり前のように思っていることが当たり前でない。それは私は鶴田さんが重度心身障害児の教室を持った時にひとりの子が熱さが分からない。どれだけ熱いものに手を触れても熱いと感じない。あるときその子がストーブに手をぱっと当てた。でも熱いということが感じられない。ただれてしまった。私たちは熱いものに触れたら熱いと自然に身についてくる。暑さ寒さを感じる。そういう障害を持ったこの場合、感じる機能が失われているというか・・・。
 年をとったらみんなそうなんでしょうけれども、排尿が自分の力ではできない。体も動かない。排便もままならないのです。朝から汚い話ですけれども、一週間に一度看護士さんに来てもらって出してもらうのです。自分ではできないのです。ですから毎日排便はないわけですから、おむつをしていても取り替えるということはなかったのです。そういう点では少しは楽でした。楽だったというとおかしいですが、看護士さんに来てもらって掻き出してもらうという、そういう状態でした。これは私が見ている方ですから、父の苦しさなんて全く分からないです。けれども、父にとっては大変な生き方だったと思います。苦しかったのだと思います。便も掻き出してもらい、尿もカテーテルをしている、そして意識はしっかりしている・・・。意識がはっきりしていますから、毎日、新聞を見るのが楽しみでした。ですから私以上によく知っていました。政治・経済・スポーツ、それを滔々としゃべるのです。それを聞いてあげる、聞いてほしいでしょうね。それだけが楽しみだったのでしょう。その中で人が生きるというのは並大抵のことではない。当たり前のようにして私たちは生きていますけれども。
 何か私たちは普通の生活の中では、いいとか悪いとか、この人が好きだとか嫌いだとか、そのようなことばかりでうごめいておるわけですけれども、そうではないのだなあ。昨日も或る友達が問題があって、いろいろ話をしておったのですが、私たちはすぐにあの人はダメだとかとすぐに切ってしまうことがあるのです。切ってしまうというのは、これは二つに分けてしまうことです。繋(ツナ)がりを切ってしまうことです。繋がりは切れない、つながりの中で生きている、ということを教えているのは仏法だと思うのです。切ってしまうというのはそれに逆らうのですね。切るのは誰が切るのかというと自分です。自分の都合で、自分の判断によってきるのです。自分にとっていい奴、わるい奴ということで切ってしまうのですが、そういうことが自分でできるのだろうか、それでいいのだろうか。昨日はそういうやり取りをやっておったのです。
 話を元に戻しますが、父の事ひとつとっても人間一人では生きていけないのではないか。誰かに世話になりながら生きている。じつは、うちの家内が全部面倒を見ているわけですけれども、でもやっぱり嫁と舅の間でありますから非常に難しい問題があります。うまくいっている時は「お前の嫁さんようやってくれるわ」、ちょっと機嫌が悪かったら「あんな奴あかん。わしのそばに寄してくれるな」と激怒するのです。やっぱりそういう時、人間ていうのはこうやな、こういうものの考え方、そういうことしかできないのだと思うのです。どこまで行っても自分というものは大切なのやなと。だからほんまに自分が大切かどうかということなのです。そういうふうに言うと楽なのかもわからないのですが、実はほんまはしんどいのです。だから苦しまねばならないのです。だから逆らっておるのでしょうね。ほんとうはつながりの中で、家庭の中で、普段は父と家内と二人っきりです。ですから父にとっては家内は仏さまみたいな存在であるはずです。手を合わさねばならないわけです。しかし不足が出るわけです。こんだけやってくれたらいいのだけれどもここまでしかやってくれない。呼んでもすぐ来なかった、あいつはあかん、と言わねばならない自分というものがおるという。それで父は苦しんでいる。お前の嫁はん何ともならん、と愚痴をこぼしながら。すると家内も反発してすぐに行かない。呼ばれて分かっていても行かない。すると自分が苦しむことにおいて自分だけが苦しんでいたらいいのだけれども、自分が苦しむことにおいて人をも苦しめるのです。自分が苦しんでいるということは自分の問題なのです。そのことが巻き込むのです。巻き込んで人をも苦しめる。そのようなものを持っている。世間ではそのようなことはごく普通の事、当たり前となってしまうのでしょう。
 そういうことは間違っているとか、相手は手を合わしていけるそういう存在であるということを知っていくのは、やはりこういうお寺に足を運んで仏法を聞くということ以外ありません。そういうことが無かったら、何でもかんでも全部自分の物差しというか、他人によってものさしは違いますから、大きな物差しをもっている人もおれば、小さなものさししか持っていない人もいるなかで、みんな自分の物差しによって判断して生きており、生きていく。その判断を自分の基準として人を切っていく。自分に都合がいい悪いと一生を暮して行ってしまう。そんな生き方ではたしていいんだろうか、ということを仏法は問うている。自分が問われている。だから真宗でいうと本願念仏の方から私が「あなたの生き方はそれでいいのですか」と問われている。それに対して自分はやはり答えていかなければならない。だから生まれてきたことを一つの宿題として与えられており、それに応えていかねばならない。それがお寺に足を運んでいただく、大きなひとつの意義になってくるのだろうと思います。このように私は思うのです。だからいろんなことがあったのですけれども、そういうことのすべてがご縁となって、この場所に来らしてもらえる、ということが自分にとって非常にありがたいことだなとおもっています。
 今日は朝5時に起きまして、コーヒーをのみテレビを点けました。ちょうどNHKの宗教の時間でした。『華厳経』の求道の善財童子の歩みについてやっていました。わずかな時間しか見ることができませんでしたが、この善財童子という方はあらゆる階層の人から道を聞いた、法を聞いたのです。だからお寺に足を運んで仏法を聞くということはどんなことなのか。現実に仏法が生きて働いているところは生活の場所です。だからお寺へきて聞いて今日はいい話だったなということで終わってしまうと何の役にも立たないということです。いろんなお話を聞いてもらって、それが生きて働いている場所が生活の現場だと思います。現場の中で親子の関係があるでしょうし、嫁姑の関係もあるでしょうし、社会に出たら人とのつながりの関係もあるでしょう。そういう中でお寺で聞いたこと、本当に聞いたことが証明されてくるのが生活の場所だと思うのです。だから一生懸命お寺に足を運んでいただいて聞いたことが、自分の生きている現場でどういうふうに自分が感じていけるのか、そこが本当は一番大事なところだと私は思っています。だから聞いたことが本当にこれでよかったと言えるのかな、生きていてよかったと言えるのか。
 私達の先達に訓覇信雄先生という方がおられました。その訓覇先生が「お前らどこに向かって歩いていんや」、口がめちゃめちゃ悪かったのですけれども、そのように言われました。そしてその時に言われたのが「火葬場一直線の生き方をしていないか」、「死んだら火葬場へ持っていかれて焼かれてそれで終わりや、そんな生き方をしていないか」と叫ばれました。そんな生き方ではなくて「浄土というところにちゃんと道をつけて、そこを歩んでいる、それをはっきりせい」、こういう事を言われました。「そういうことがはっきりしたらのうのうと生きておられんやろ」、言ってみればおしりに火がついたらそこでじっとしている奴がいるか、おしりに火がつけばのた打ち回るやろ、今火がついているやろ、それを消さにゃあかんやろ、おしりに火がついているということは悩んだり患ったりすることです。悩んだり患ったりしていることがどこからきどこから来ているんや、ということです。ここをはっきりせい、ということです。自分が苦しんでいるのは誰かのせいか?ということです。何で自分は苦しんで悩んだりしているのか、その根っこをはっきりすれば問題ははっきりするだろう。だからここは世間というのは全部他人のせいにする。他人のせいにしながら、それを一つ一つクリアーして自分の生活が豊かになろうというふうに考えているのでしょう。その苦の原因は自分の中にある。何でその苦の原因が自分の中にあるのだ?ということをはっきりさせていく歩みが自分の生き方ではないのかなと。そのことをお寺に足を運んで聞いていだだくことのいちばん大きなものではないかと思います。そのようなことをズッーと思っています。これが正しいことかどうかわかりません。だから大いに疑問をもっていただき、その疑いを晴らすということも大切な大きなひとつの生き方ではないかと。うのみにしますと何処へ行くかわかりませんから。うのみにしない、疑って、疑って、疑いを縁としていく、これを親鸞聖人は「疑謗を縁としてついに明証をいだす」とおっしゃっておられます。疑いを縁として真実とは何か、ということを明らかにしていく。そういうことが自分に問われている一番大切な事柄ではないのかな、と思います。とりとめのない話でしたが、朝早くから足を運んでいただきまして誠にありがとうございました。」
 
 
 

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