唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (72)九難義 (12) 唯識成空の難 (5)

2016-08-24 22:54:40 | 『成唯識論』に学ぶ
  

 partⅢ 
 『唯識二十論』第十頌 問と答
 「復云何知佛依如是密意趣説有色等處。非別實有色等外法爲色等識各別境耶。頌曰 以彼境非一 亦非多極微 又非和合等 極微不成故論曰。此何所説。謂若實有外色等處。與色等識各別爲境。如是外境或應是一。如勝論者執有分色。或應是多。如執實有衆多極微各別爲境。或應多極微和合及和集。如執實有衆多極微皆共和合和集爲境。」(大正31・75c)
 (復、云何ぞ、仏は是の如き密意趣に依って色等の処有りと説くも、別に実の色等の外法有りて色等が識の各別の境と為るに非ざるや。
 頌に曰く、
 彼の境は一に非ず。亦た多の極微(ゴクミ)にも非ず。又、和合等にも非ず。極微は成ぜざるが故なり。(第十頌)
 論じて曰く。此れは何の所説なりや。謂く若し実に外の色等の処有りて色等の識の與(タ)めに各別に境と為らば、
 (1) 是の如き外境は或は応に是れ一なるべし。勝論者の有分色を執するが如し。
 (2) 或は応に是れ多なるべし。実に衆多の極微有りて各別に境と為ると執するが如し。
 (3) 或は応に多の極微の和合及び和集すべし。実に衆多の極微有りて皆共に和合・和集して境と為ると執するが如し。)
 和訳
 外界実存論者は反論する、
 (云何ぞ)ではまた、仏陀はそのように密意趣に依って色等などの処が実在すると説いたとしても、識とは別に、色等の外界のものが実在して、それらが色等の識のそれぞれの認識の対象とはならないということはどうして知り得るのか?
 論主は答えて云う。頌において、
 「彼の識の認識対象は単一なるものではない。また、多くの極微でもなく、また、極微の和合したものでもない。極微は成り立たないからである。」
 それを論じて云う。
 (此れは何の所説なりや)この頌によって何が説かれているのか。
 つまり、もし外界の色等の部門が実有であって色等の識のためにそれぞれ認識対象なるとなるならば、
 (1) そのような外境は単一なるものとなるべきである。勝論学派が有分色を執するように。
 (2) 或はそれは(原子のままで)多数なるものである。実に数多くの極微が存在して、それらがそれぞれに認識対象と執するように、
 (3) 或は多くの極微が和合するか、和集するか(原子の集合したもの)を認識対象であると執するように。(これは経量部の主張になります。実に多数の極微が存在していてそれらが皆共に和合し集積して認識対象になると考えているようにである。)

 世親菩薩は、色形などの認識対象が外界に実有として存在しないことを論証する為に、外界を構成している元素そのものが実在しないことを明らかにされているのです。このことは、古代インド哲学の主流である六派哲学において、宇宙の構成原理は、元素(四大種や極微)から造られるとする考え方が大勢を占めていたからです。
 第一説は、ヴァイシエーシカ学派は次のように主張する、(『二十詩篇の唯識論』p437より引用)
 「たとえば、茶わんは原子の集合からなるが、しかも但なる集合とは別に、茶わんという単一なる全体性をももっている。(有分色という)この全体性は多くの原子からつくられながらも、しかも、それらとは別な実体である。しかし、仏教者は、手は五本の指として見られるだけで、第六番目の実体として手をいうものがあるわけではないとして、全体性の理論を否認する。」

 ヴァイシエーシカ学派は、同類のものには(例えば茶わんや牛)同一の共通性が実体として内属していると考えているのです。実体として内属されたものは外界に実在すると考えられているのです。
 第二説・第三説の説明は後日にします。そして世親菩薩が認識対象は実在しない論証をみていきます。
 

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 付録(『大乗仏典』より。梵文和訳)
 (反論)「しかし、君の言うような意味で世尊から色形などの諸部門の存在を説いてのであって、決して(色形などの諸部門が外界に)実在していて、色形の認識をはじめとする一つ一つの認識の対象となるのではない、ということはどうして知りうるのか」
 (答論)次のようにして知りうる。
 それは単一なものとしても対象とならず、多数の原子としても対象とはならず、またこれら原子の集結したものとしても対象となりえない。原子は証明されないものだから。
 何が意味されているのか。すなわち、色形などの部門が、色形の認識などにとってそれぞれ対象となるとすれば、それは、(一)ヴァイシエーシカ学派が想像している全体性のように単一なものであるか、(二)原子のままで多数のものであるか、あるいは、(三)原子の集結したものであるかのいずれかであろう。 (つづく)
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