第三、十煩悩諸門分別
諸門とは(十二門を以て構成される)、十二門から煩悩の心所が分析されます。
- 分別倶生門
- 自類相応門
- 諸識相応門
- 五受相応門
- 別境相応門
- 三性分別門
- 三界分別門
- 三学分別門
- 三断分別門
- 有事無事門
- 有漏縁無漏縁分別門
- 縁事境縁名境分別門
一に、分別倶生門、初めに、十煩悩が倶生起の煩悩か、分別起の煩悩かについて説かれ、この中がさらに二つに分けられ説明されます。その一は、貪・瞋・癡・慢・薩伽耶見・辺執見の六つについて説明されます。その二は、疑・邪見・見取見・戒禁取見の四つについて説明されます。
この初が、正しく分別すると云われています。十煩悩が倶生起の煩悩なのか、分別起の煩悩なのかについて説明されています。
「是の如き総と別との十煩悩の中に、六は倶生及び分別起に通ず。任運にも、思察するときにも倶に生ずることを得るが故に。」(『論』第六・十五左)
このような総と別との十煩悩の中で、六つは倶生起及び分別起の両方に通ずるのである。何故ならば、任運の時も思察(シサツ・思惟観察)する時にも倶に生じるからである。
六つは、貪・瞋・癡・慢・薩伽耶見・辺執見の六つです。これらの煩悩は分別起にも通じるということになります。倶生は「身と倶なり」ですね。いのちとともにあるもの、という意味になります。生命の誕生と共に、この六つの煩悩は宿っている、これは任運起だということですね。人人唯識ですからですね、人それぞれが担っている煩悩が有る、それらと倶に私は身と(六つの)煩悩と倶に生れてきたんだということでしょうね。深い問題を抱えて生まれてきているんですね。
思察は分別起になります。思惟観察という、後天的な教えに依る煩悩ですね。習という、育っていく過程で身に付けていくのが分別起の煩悩です。
倶生起はどうすることも出来ませんが、大切な所は、分別起ですね。正法に遇うことを通して目覚めを得ることができるんだ、ということです。これも分別起なんですね。
「雑行を棄てて本願に帰す」。これ分別起なんでしょう。そして倶生起に目覚める。「出離の縁有ること無しと深信す」。ここに信心がすえ通るわけでしょう。ですから、分別起の煩悩は十すべてです。十すべての煩悩が縁となる、生活そのものが、本願に出遇う縁となるということを教えているのでしょう。
「若しは総、若しは別、但だ十種有り。一に倶生分別なり。貪等の六とは鈍の四と利の二と、分別と倶生に通ずるが故に、疑と三見とを除く。任運に起るが故に、是れ倶生なり。思察して生ずるが故に是れ分別なり。顕揚の第一及び大論第八に、皆な此の六は倶生分別「に通ずと云うが故に。」(『述記』第六末・三十右)
総・別は何を指すのかという問題がありますが、伝統的には『了義燈』の所論を勝れているとされています。後述します。今日は、諸門分別を説明するのに十門を以てすることだけを述べておきます。