前回のつづきになります。
第二は、寿も識と同じく身を離れないという観点からの論破です。
寿は命根のことで、生命と考えていいと思います。
「寿と煖と諸根とも亦識の如くなる応し、便ち大なる過と成りぬ。」(『論』第四・四左)
本科段は有部の主張に対する論破ですが、先に契経に説かれていることを論証として有部の主張には過失があると述べています。
「滅尽定に住する者は、・・・しかし寿は滅さない、また煖を離れない、識は身を離れない」」
ですから、本科段の意味は、寿と煖と処ねとも識のようになるであろう。それであるならば、有部の主張には大いなる過失があると云わざるを得ない。
有部の主張は滅尽定中では六識は滅していると説いているのですが、識と寿と煖とは密接不可分の関係なんですね。相互に支え合って生命活動をつづけているわけです。従って一つでも滅していることになれば生命活動は停止すなわち死を意味します。
つまり、有部の主張である限りですね、滅尽定においては寿も煖も五根も滅して存在しないことになるわけです。
先ほども述べましたが、寿は生命活動ですし、生命活動がある限り温かさという体温が保たれ、五根の活動がある、これが生きているということです。従って、有部の主張通りであったならば、滅尽定入るのは死を意味しますから、大いなる過失があると破斥するのですね。
次回は結びになりますので、参考文献として『述記』の記載を紹介します。