唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 滅尽証(5)

2017-10-13 22:24:18 | 阿頼耶識の存在論証
 
 唯識無境ということは、第八識という、私の「いのち」を支えてくれている根本なる識で浄なる性質であり、善・悪・無記と転易しない無垢なるもの、境と一体のものの性質から、無境と云い表されているように感じます。私たちの分別意識からでは、境という対象物は有りますね。例えばもうすぐ紅葉の季節になりますが、青いサングラスをかけて鑑賞したら、紅葉はどのように見えるでしょうか。確かに、紅葉は境として存在しているのですが、私の分別意識に依って紅葉そのものを見ているわけではないのです。「サングラスをかけて」と云いましたが、サングラスはどこにかけているのでしょう。身に依っているわけですね。この身が第八識の所縁になって境を認識しているのです。つまり第八識は紅葉に働きかけて、捉えた紅葉を何の分別も加えずに、第八識が認識しているわけですね、これを行相見分といいますが、根本の動きの中では、サングラスはありません。分別意識は無いということですね。
 青き色には青き光、黄なる色は黄なる光、赤き色には赤き光、白き色には白き光。ありのまま、そのままを認識しているのが第八識なのですね。こおような性質を無覆無記と云われ、感情も、苦楽に執されることなく捨受なのです。この第八識が私の流転と共に一体となって流転してくださっているわけですが、この流転は考えられたものなのですね。想に依って引き起こされてくるのですが、背景は触・作意・受の心所です。これは生まれてきたことと関係します。人間としての境涯は有漏の身であるということですね。つまり、煩悩と共に生まれてきたのです。サングラスをかけて生まれたということです。こサングラスの正体が「我」です。我は感情と共に動きます。触・作意に依って受が働くのです。
 紅葉は紅葉なんです。これが本質です。本質は無漏ですね。浄なるものです。浄という本質の上にサングラスをかけているのです。ここで見えてくるのが影像ですね。私たちは、影像を本質と錯覚を起こして境は有るんだと、その境に依って私の意思が左右されてくると思っているのですね。ですから、私には「我」は見えません。
 ただいえることは、対象物が有ると思っているのは、私のサングラスをかけて見えている像なのです。対象物そのものの姿を捉えているのではないのです。捉えているのは、私のかけているサングラスですから、外に有ると思っている対象物は、自分の意識に他ならないのですね。
 四六時中、私は、私の意識と対峙しながら向き合っているのです。
 具体的に、仕事のことでいいますと、先月は年度末ということも手伝って、納期をせかされました。そうしまうと、時間が有りませんから(ここだけの話ですよ)手を抜く、手抜きです。横着ですね。取り合えず納品します。内心はクレームか無ければラッキーと思っているのです。しかしそうは上手くいきません、必ず少なからずですがクレームがきます。担当者からお叱りを受けることになりますが、最初からお叱りを受ける覚悟はできているんですがね、お叱りを受けると腹が立つわけです。「急がすからだ」とね。しかし不良は不良です。いいわけは利きませんが、腹が立つわけです。自分が立っているなぁと思うのですね。そこで、自分に帰ることが出来るんですね。唯識無境は、このようなことを教えているのではと思うことです。
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