唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 滅尽証(4)

2017-10-10 22:21:29 | 阿頼耶識の存在論証
 
 第一に総論として諸部派の、滅定の中に在って本識無しという主張を論破し、滅定でも存在する心は第八識しかありえないことを明らかにする。第二に有部の主張を論破し、第三に経量部の本計(ホンケ・根本の主張)を論破し、第四に経量部の末計(マッケ・根本主張に対する付随的主張)を論破する一段。
 第一の総論になります。
 諸部派は、滅定では転識はすべて滅すると主張した、六識のみで識体系を述べる説をまとめて論破しています。
 「謂く、眼等の識は行相麤動(ギョウソウソドウ)なるを以て、所縁の境の於(ウエ)に起るときに、必ず労慮(ロウリョ・疲れ倦むこと)す。彼を厭患(オンゲン・きらうこと)するが故に、暫く止息(シソク・やむこと)せんと求めて、漸次(ゼンジ・次第に、だんだんと)に伏除(ブクジョ・取り除くこと)して都尽(トジン)の位(すべてを滅し尽くした処)に至る。此の位に依って滅定に住する者を立つ。故に此の定の中には、彼の識いい皆滅しぬ。」(『論』第四・四右)
 (意訳)
 つまり、眼等の識は行相(認識する有りよう。相状)が麤(あらい)であり動(変化すること。転易)である為に、所縁の境(認識対象)に働きかける時には、必ず疲れ倦むのである。聖者は六識の「麤と動」による疲れ倦むことを厭いきらうために、暫く麤であり、動である六識による疲れ倦むような活動を止めんとして、次第に取り除いてすべてを滅し尽くそうとする直前の心に至り(滅尽定に入る直前の心で、微微心という)そして滅尽定に入るのである。この微微心の位に依って滅尽定に住する者を立てるのである。このように、滅尽定の中には、彼の転識はすべて滅するのである。
 本科段は、滅尽定では転識はすべて滅することを証明し、滅してもなお滅尽定が修されるのは何に依るのかを明らかにしているのです。
 滅尽定とは、部派では、心・心所が滅した定と云われています、止息想に依って心のはたらきを滅して入る禅定をいいますが、唯識は八識のなかの転識の働きが滅するのみで、阿頼耶識は滅していないと云います。滅尽定では遍行の受と想とを滅した禅定であるといわれて、滅受想定とも言われています。苦楽を感ずる感受作用と、言葉による概念的思考を起して心を騒がす相とを嫌って、この受と想との二つを滅する滅尽定を具体的に滅受想定と云っていkるのです。
 『論』では「行相麤動」と云われていますが、行想は行相見分のことです。「眼等の諸識」つまり六識には二つの行相が有ることを明らかにしています。一つは麤であり、二つには動である。麤は相貌が知りやすい、細やかな動きをせず、荒々しいのですね。よく見えるわけです。静に対する動になります。動は転易のことです。或る時には間断することがあって、或る時にはしばしば、その性を変化させる(転易)のである。そして、有る処には有ること無し、縁おおくして散乱する、と云われているのが「動く」の意味なのです、
 つまり、
 (1) 間断がある。
 (2) 三性(善・悪・無記)を変える。
 (3) 三界において存在しないところがある。
 (4) 多くの所依、所縁に依って初めて生起しえるので散乱する。
 のが「動」の内容になります。ここをもって六識は行相は散乱し麤動であると云われているのです。生滅変化が著しいということですね。 (つづく)
 
コメント
この記事をはてなブックマークに追加