唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (28)

2017-02-26 21:46:38 | 阿頼耶識の存在論証
  

 先日は事前学習として、講義の概略を投稿をしましたが、実際は『論』の二行だけを読むことが出来ませんでした。遅々とした歩みではあります。ブログの方は少し先行いたします。今日からは第二教証に入ります。
 ここも復習ではないですが、今までの学びの確認を要求されます。
 「今、此の頌の中の諸所説の義は第八識に離れては皆な有ること得ずといわんとぞ」(『論』第三・十八左) 
 『大乗阿毘達磨経』に説かれている四句の頌は、一切法は第八識に離れてはないのだということを表しているのです。
 そして、また次のようにも説かれていることを挙げてきます。
 「即ち彼の経の中に復た是の説を作さく、」(『論』第三・十八左)
 「彼経」は『大乗阿毘達磨経』です。復た次のように説かれている、と。
 「諸法を摂蔵(ショウゾウ)する一切種子識に由るが故に阿頼耶と名く。勝者のみに我開示すと。」(『論』第三十八左)
 関係性です。つながりのすべてを阿頼耶識は摂め取っている。それが一切種子識と呼ばれている。三義の中では能蔵の義、蔵とも云われますが、経験のすべてを格納し保持ている貯蔵庫になりましょうね。それを阿頼耶というのだと。
 ここまでは何とか納得がいくのですが、次の文言にとまどいます。
 「勝者のみに我開示すと」
 思い起こされるのは、『解深密経』巻第一の結びに示されます一文です。
 「阿陀那識は甚だ深細なり、我凡と愚とに於ては開演せず。一切の種子は暴流の如し。恐らくは彼分別し執して我と為せんことを」
 第八識が諸法の根本であることが理解できないのですね。全ては意識によって何とかなると思っていますからね。何ともならんのですが、意識は第七末那識を倶有依としていますから、ただ不善の因を依り所として意識は出てきますので、どうしても自己中心的にならざるを得ないのです。
 つまり、八地以上の菩薩には開示するけれども、それ以前の行者には開示しない。なぜならば、我と執を起こすからである。それほど我の問題は深いということなのですね。
 本科段は『樞要』に三義をもって説明されていますが、次回にします。